遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(15)

6月22日(水)午前中は雨が降っていたが、昼前にやんだ

 奈良時代から平安時代にかけて天皇の命令で編纂された6部の歴史書――『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を<六国史>といい、神代の昔から、平安中期に至る国家の動向が連続して記録されている(ただし『日本後紀』のかなりの部分が散逸してしまった)。平安中期以降、貴族社会の変質のために、国家の事業としての歴史書編纂は行われなくなり、貴族の日記がこれに代わって内外の出来事を記録し、先例を参照するための手引きとして利用されるようになった。それらの日記を利用しながら、個人の手で執筆された<私撰国史>が、さらには歴史物語が出現する。
 その一方で<六国史>は朝廷における祭祀にかかわっていた卜部氏によって、それらの祭祀の由来や先例を知る典拠として書写され、伝承された。卜部氏は「日本紀の家」と認められるようになったのである。

 卜部氏には京都の吉田神社の神職になる吉田流と、平野神社の神職になる平野流の2つの系譜があったが、吉田流では『日本書紀』を鎌倉時代の末に卜部兼夏が書写した乾元(けんげん)本が、平野流では同じく鎌倉時代に卜部兼方が書写した神代巻の『日本書紀』である弘安本が伝えられ、それぞれの家の学問を支えた。また兼方は『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』を編集したが、そこには天照大神の本地は大日如来であり、「大日本国」とは「大日如来の本国」という意味であるというような従来にはなかった解釈が展開されていた。「皇室の祖神アマテラスの本地が大日如来であるなど、古代では考えられなかった解釈である。皇室の祖神が変貌するのは、神話の文献を自在に引用解釈し、中世独自の世界観を提示する中世の代表的な見解である。これが「日本紀の家」の最も重要な写本に〔裏書の形で〕知らされている。卜部氏の『日本書紀』研究は、単に先祖の学説を守り伝えただけでなく、時代の要請に応じ新しい解釈を受け入れていたのだ。」(189ページ、〔〕の中は前後の文脈から私が補った。)
 いわゆる「中世神話」が卜部氏の『日本書紀』「神代巻」の解釈に取り入れられているというのは、その通りだと思うが、アマテラスの本地が大日如来であるという考えは、かなり根が深いのではないか。そもそも東大寺の大仏が廬舎那仏(大日如来)であるというのは、伊勢に祀られる皇室の祖神を意識してのことではなかったかと思われるからである。(鎌倉の大仏が阿弥陀仏であるのは、八幡神の本地が阿弥陀仏であると考えられていたからである。)

 その一方で、鎌倉時代以前に行われていた古い<日本紀講>の中で用いられた訓読が残され、その結果として平安時代初期の日本語の訓みが残されているという側面もあるという。(ここで「上代特殊仮名遣い」を「奈良時代に行われていた古い発音の仮名表示」(190ページ)と説明しているのは、国語史の観点から見て、あまり適切な表記ではなく、版を改める際に訂正してほしい。)

 室町時代以降、「日本紀の家」として存在感を高めたのは、吉田流のほうで、朝廷で神器に関する案件が持ち上がった際には意見を求められるなど重んじられるようになったが、その間、自分たちの来歴を高めようと、<六国史>の写本の記事を改竄するようなことまでしたことを著者は指摘している。卜部氏吉田流の兼煕は南北朝合体にかかわるなど、政治的にも大きな役割を果たし、吉田を家の名として公卿の地位を得ることになる。兼煕の跡を継いだ吉田兼敦が早く死んだために吉田家は危機に陥るが、兼煕から『日本書紀』の秘説を伝授されていた、当代一流の学者であった一条兼良から伝授を受けて切り抜ける(この時代の学問は現在のように公開されるべきものではなく、少数の人々に秘伝として伝えられるものであったのである)。
 その後、吉田家からは吉田兼倶(1435-1511)が現れ、「唯一宗源神道」を唱えた。「兼倶が自邸に設けた斎場所には茅葺の八角建物、大元宮を中心に神祇官の八神、伊勢の両宮、日本全国の式内社3132座が祭られた。慶長6年(1601)に再建された大元宮は、兼倶の思想を体現する建築空間として、今も京都大学の東隣、吉田神社(京都市左京区)に現存する。」(196ページ) だんだん、話が<六国史>から離れてきているように思われるが、私もこの大元宮を見た記憶があるので、ここは見逃せない箇所である。

 吉田兼倶の同時代人であり、歌人として知られる三條西実隆(1455-1537)は平安文学を中心に膨大な文献を書写したが、<六国史>の収集と書写にも努めた。『日本後紀』40巻のうち10巻しか伝わらないのは、実隆が入手できたのがこの10巻だけであったためであるというほど、今日の<六国史>研究者は彼の大きな恩恵を受けているのである。吉田兼倶は自分の陣営に実隆を引き入れようとしたが、実隆は兼倶の神道説を受け入れず、むしろ『源氏物語』の研究に力を注いだ。彼の子である公条はその著『明星抄』の中で、「神道では『日本書紀』を「宗源」と呼んだように、(『源氏物語』という書名は「万の道の源」という意味であることは明らかである。」(201ページ) もちろん、これはこじつけであるが、実隆と、彼の子孫である三條西家の公卿たちが『源氏物語』を<六国史>を継承する物語として、その研究を家の学問といた理由を物語っているのである。
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