『太平記』(109)

6月18日(土)晴れ、暑し

 鎌倉幕府の滅亡後、隠岐から京都に戻られた後醍醐天皇を中心として、朝廷に一元化された政治が行われるようになったが、倒幕にかかわる恩賞の不公平や性急な内裏の造営など、武士をはじめとしてその政策に批判や不満を持つ人々が少なくなかった。その声を反映するかのように、怪しい出来事が起きた。建武元年(1334)8月、隠岐広有に命じて内裏に飛来する怪鳥を射させることがあり、また天下の妖気を消すべく、弘法大師ゆかりの神泉苑が再興された。
 建武2年3月(史実では建武元年10月)、足利高氏と対立していた護良親王が、高氏の讒言により逮捕・拘禁された。高氏の讒言を後醍醐天皇に取り次いだのは寵姫の阿野廉子だった。

 護良親王は、当時二条富小路にあった内裏の1町西の二条高倉(二条通と高倉通りの交差点)に造営された馬場殿の一間四方の部屋に押し込められた。(1間≒1.8メートルで、1間四方ということは1坪≒3.24平方メートル、8畳の部屋に相当する。私の学生時代に8畳の下宿に住んでいるのものはまれであった――たいていはもっと狭い部屋を借りていた――が、時代も身分も違いすぎるので、これは参考にはなるまい。) 部屋の周囲をクモの脚のように材木を厳重に交差させ打ち付けた中に住まわせられて、面会に訪れるものは1人もなく、日々を泣きながら過ごすことになった。いったい自分はどのような因果で、元弘年間には幕府の追及を逃れて、倒木の下や岩陰に隠れ、また寝起きして、露に濡れた袖を乾かすこともせずに過ごし、京都に戻ったのちは、1日の楽しみが終わらないうちに、讒言をするものが現れたために罪人の汚名を着せられ、刑罰に苦しむことになったのかと、自分にはわからない前世の行いの報いをことごとく思いめぐらせたのであった。
 事実無根の噂は長続きしないといわれているので、今お怒りになっている天皇もいずれは事の真相をお知りになるであろうと、思われていた。ところが、朝廷の評議は「遠流」に決まったという噂が聞こえてきた。律令政治の下での刑罰では流刑は死刑に次いで重い刑で、京都からの距離で近流・中流・遠流と分けられ、遠流が最も重い流刑であった。それを聞いて悲しみのあまり、親王は気心を通じていらした女房に命じて(誰も面会に訪れるものはなくという前段の記述と食い違う)、詳しい弁明のお手紙を書かれ、伝奏(てんそう=天皇への上奏を取り次ぐ職)に託して、正しい事情をお伝えするようにと仰せ付けられた。

 以下、その手紙が続くが、省略させていただく。このような手紙がなぜ、『太平記』の作者の知るところとなったのかはわからない。あるいは作者が親王のお気持ちを忖度して、想像で書いたのかもしれない。私は、『平家物語』の終わりのほうで、壇ノ浦の合戦で捕虜となった平宗盛親子を連れて鎌倉に戻った源義経が、頼朝の勘気を受けて、鎌倉に入ることを許されず、弁明のために書いたとされる「腰越状」を思い出すのである。「腰越状」が直接に頼朝宛には書かれず、その側近の大江広元宛に書かれているように、護良親王の消息も「前左大臣殿」あてに書かれている(「前左大臣」が誰かがわからない――岩波文庫版の脚注には二条道平と記されているが、史実と照合しないという異論もある――ので、余計、この手紙が胡散臭いのである)。なお、「腰越状」 も偽作であるという説が有力であることを書き添えておく。先に、護良親王が『太平記』の中では源義経になぞらえられているという説に触れたが、ここもその一例ではないかと思うのである。

 この手紙の内容が、もし天皇のお耳に入ったならば、罪を許すというお沙汰もあったかもしれないのであるが、伝奏の役人が天皇の側近の人々の怒りを買うことを恐れて、ついに上奏することはなかったので、天皇のお耳には届かず、心からの訴えは通らなかった。しかもこの2・3年の間、親王に付き添って、忠義に励み恩賞にあずかろうとしていた候人(こうにん=妻帯の僧)たち30人余をひそかに処刑してしまったので、もはやとやかく言っても無駄という次第になってしまった。

 ついに建武2年5月5日(史実は建武元年11月)に護良親王を足利高氏の弟の直義に引き渡したので、佐々木(京極)道誉をはじめとする数百騎の軍勢が道中の警護に当たり、鎌倉に護送して、二階堂谷(やつ)に土牢を作ってその中に幽閉した。
 親王の父である後醍醐天皇は遠流の地である隠岐を脱出して帝位に返り咲き、さらに古く源頼朝は伊豆に流されたものの、平氏打倒の兵を起こして勝利し、征夷大将軍になった。しかし、政敵である高氏の弟の直義に引き渡され、高氏の盟友である佐々木道誉が護送するということになると、再起の望みは極めて薄いことになる。鎌倉幕府の末期の元弘2年(1332)に道誉は後醍醐天皇の側近であった源具行を(表向きは)鎌倉に護送する途中、幕府の密命で近江の柏原で斬ったという前例がある。

 持明院保藤の娘で南の御方と呼ばれる身分の高い女房1人以外は、おそばにいるものはおらず、月日の光も見えない暗い部屋の中で、横殴りに降る雨に袖を濡らし、崖から滴り落ちる滴に枕も乾くことなく、半年を過ごされた、その心中を推し量ると悲しみでいっぱいであったと思われる。天皇は一時の怒りに駆られて、鎌倉に遠流という沙汰をおくだしになったのであるが、これほどひどい目に合わせようとはお考えではなかったのに、直義が、以前からの怨みがあって、土牢の中に拘禁してしまったのはあさましいことであった。

 『太平記』の作者は親王の消息の中に「申生死して晋の国傾く」という字句に読者の注意を向けさせ、親孝行な息子が父親に対して誠実な態度をとっているのに、継母が自分の邪魔になる先妻の子を除こうとして讒言を用いるようなことがあると、国を傾け、家を失う例が少なくないと、『史記』晋世家その他に見える晋の献公と、その后の死後に寵愛を受けた驪姫、その讒言によって殺された献公の長男の申生、国を捨てて亡命した重耳(後に晋に復帰して春秋五覇の1人となった文公)、夷吾(後の恵公)の説話を記す。この部分は省略するが、最後に、次のように書いて12巻を締めくくっていることを付け加えて置く:
「そもそも今、兵革一所に定(しず)まりて、廃帝重祚を践み給ふ御事は、ひとへにこの宮の武功に依りし事なれば、たとひ小過ありとも、誡めてしかも宥めらるべかりしを、是非なくして敵人の手に渡されて、遠流に処せられん事は、朝庭再び傾いて、武家またはびこるべき瑞相にやと、人々申し合ひけるが、はたして大塔宮失はれさせ給ひし後、忽ちに天下皆将軍の代となりにけり。「牝鶏の晨(あした)するは、家の尽きんずる相なり」と古賢の云ひし言(ことば)の末、げにもと思ひ知られ足り。」(第2分冊、283-284ページ、そもそも今、戦乱が短期間で鎮まって、後醍醐天皇が再び帝位につかれたことは、ひとえにこの宮の武功によることであったので、たとえ小さな過失があったとしても、諫めることは諫めても寛大に処すべきであったのに、事の善悪を顧みず、直ちに敵の手に渡されて、遠流という刑を下されたことは、朝廷が再び傾いて、武家がまた盛んになる瑞相(=めでたい予兆)ではないのかと人々は噂したのであるが、果たして大塔宮が亡くなられたのちに、忽ちに天下は皆足利高氏のものとなってしまった。「めんどりが朝の時を告げる(後宮の女性が政治に口出しする)のは、家(国)の滅びるしるしであると、昔の賢者が言ったことは確かにその通りであると思い知らされることであった。)

 『太平記』の作者はこのように、護良親王に同情的な意見を述べているが、森茂暁さんが『太平記の群像』で書いているように、「徹底的な天皇独裁制を貫徹すべく摂政・関白のポストを置かなかった後醍醐にとって、たとえ皇子であろうと征夷大将軍を置くことは明らかに政治路線の後退を意味した」(森、角川文庫版、93ページ)のであって、天皇と親王の間も必ずしも円滑なものではなかったことを考えるべきである。しかし、その森さんも、「享年28歳。倒幕戦での果敢な活躍、かの勇壮な入洛とはうらはらの、あまりにも悲惨であわれな最期であった」(同上、94ページ)と、親王への同情を込めた書き方をしているのは、当然と言えば当然のことであろう。ただし、「瑞相」という言葉は、明らかに武家の立場から発せられたものであり、『太平記』の複雑な成り立ちが、こういう表現からもうかがわれるのである。第13巻(護良親王の最期もその中で描かれている)になると、事態は急展開を始めるが、それはまた次回以降に紹介していくことにする。
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