遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(14)

6月13日(月)雨、夕方になって降りやむ

 第4章の第2節では、平安時代の末から戦国時代にかけて《六国史》がどのように書き伝えられたかを、貴族社会と神祇関係者の動きに焦点を当てて述べている。ここで大きな役割をはたしたのは、《日本紀の家》 と呼ばれた卜部氏吉田流であるという。

 この節を著者は、天理大学付属図書館に収められている『日本書紀』乾元(けんげん)本と呼ばれる、乾元2年(1303)に卜部兼夏によって書写された国宝指定の写本を見たときの深い感動から書き起こしている。「この『日本書紀』乾元本は、神祇への奉仕を職務とした卜部氏吉田流で伝承されてきた根本の神代巻である。中世で『日本書紀』をはじめとする六国史を伝承したのは、紀伝道の博士家でなく卜部氏であった」(186ページ)という。卜部氏はその名のごとくウミガメの甲羅を焼いて吉凶を占う亀卜を行った古代氏族であったが、やがて神祇官に仕えて、祭祀を専門とする氏族となり、京都の平野社の神職となる平野流、吉田社の神職となる吉田流の二系統に分かれ、ともに家の学問として神祇の先例やしきたり、『日本書紀』などの古典についての研鑽を重ねていく。「したがって、正しい本文と先祖代々の解釈が加わった『日本書紀』乾元本のような写本は、『日本紀の家」にとって、家の存立にかかわる大事な写本(家の証本)だった」(188-189ページ)という。

 「日本紀の家」としての卜部氏の活躍の例として、著者は『太平記』の中の逸話を挙げる。
 「北朝の貞和年間(1345-1350)、伊勢国国崎(くざき)で得られた神秘的な剣が朝廷に持ち込まれたことがある。この剣は源平合戦の時に壇ノ浦に沈んだ神器の宝剣ではないかと議論になる。そこで相談に与ったのは平野流の卜部兼員(かねかず)であった。
〔以下『太平記』の該当部分が現代語で記される〕
その後、〔大納言日野資明(すけあきら)は平野社の神主である神祇大副(たいふ)の兼員を呼んで、「神代のことは、何としても『日本紀の家』で知っておくべきことだ。〔中略〕専門家の意見を尊重したいから、兼員の考えを正しい説とすべきである。少しばかりこの機会に理解しておきたい事情がある。詳しく説明してほしい」とおっしゃった。
(『太平記』巻25 宝剣進奏両卿意見の事)
「日本紀の家」の面目が窺える挿話である。」(187ページ) そして、現存する吉田兼員の手紙から、これが貞和4年(1348)に実際に起きた出来事であると考えられるという。

 現在、このブログでは『太平記』を読み進めているが、まだ12巻までしか辿りついておらず、だいぶ先の話である。とはいうものの本は買ってあるので、調べてみたところ、巻25ではなく、巻26にこの話が出ていた(岩波文庫版の第4分冊所収、当該箇所は181-2ページ)。『太平記』の写本には古態本と流布本の2系統があり、岩波文庫版(兵藤裕己校註)は古態本に基づいて編纂されている。『太平記』は40巻からなるが、22巻が欠けている。また岩波文庫版には「宝剣進奏両卿意見の事」という章段名は見えず、「伊勢国より宝剣を進す事」となっており、続く「黄粱の夢の事」もこの出来事に関連する内容である。おそらく遠藤さんが利用した『太平記』は流布本の系統に属するものであるため、このような違いが出てきているように思われるが、遠藤さんがこのあたりの事情を記していないのは読者に対して丁寧な態度とは言えない。

 ここで「両卿」というのは、当時の北朝の朝廷で強い発言力を持っていた日野(柳原)資明と坊城(勧修寺)経顕で、日野資明は『太平記』5巻から持明院統⇒北朝方の公家として活躍していた。この2人はその発言力・影響力を競っていた。岩波版の「梗概」に従うと、「その頃、円成(えんじょう)という僧が、かつて壇ノ浦の海に沈んだ宝剣を、伊勢で発見したと称し、日野資明のもとに持参した。卜部兼員から三種の神器の由来を聞いた資明は、兼員に命じて剣を平野社の神殿に籠めて祈らせると、はたして伊勢から宝剣が奉られる夢を足利直義が見た。8月18日、宝剣は朝廷に迎えられたが、坊城(勧修寺)経顕が、黄粱の夢の故事を説いて上皇を諌め、剣は卜部兼員のもとに差し戻された」(第4分冊、164ページ)という経過を辿る。したがって、必ずしも卜部兼員はこの文脈で面目を施しているわけではない。しかし、兼員が語る三種の神器の由来は、「中世神話」の一例として、一読に値するものであり、私が『太平記』をこの箇所まで読み進むことができれば、じっくり検討してみようと思うような、興味に満ちたものである。それはともかくとして、『太平記』のこの一件を卜部家の「日本紀の家」としての地位の例として引き合いに出すのは、必ずしも適切ではないことが分かるはずである。

 兼員の祖父兼方(かねかた)は『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』を編集した。これは兼方の父である兼文が蒙古襲来のあった文永11年(1274)から摂関の一条実経(さねつね)に『日本書紀』の講義を行い、その内容にまとめたものである。「実際の講義を重ねる中で、日本紀学とでもいうべき卜部氏の学問が固められていった。」(188ページ) 遠藤さんは、あまりはっきりとは記していないが、そこで形成された学問は少数者の独占する、神秘性をもったものであった。このような独占が破られるのはもう少し後になってからのことである。

 今回は、『太平記』の話が出てきたので、脱線してしまった。次回も卜部氏やその他の室町貴族たちの《六国史》とのかかわりについての著者の論述を見ていくことにする。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR