『太平記』(108)

6月10日(金)晴れ、暑くなった。

 鎌倉幕府が滅び、公家一統の政治が回復されたが、新政は順調には展開されず、倒幕の恩賞への不満もあって、なにかと不安な日々が続いていた。『太平記』の作者は「妖気なほ禍ひを示す」(第2分冊、264ページ)と記している。元弘4年(1334年)の7月(正しくは正月29日)に年号が建武と改められた。8月に隠岐広有に命じて内裏に飛来する怪鳥を射させることがあり、また天下の妖気を消そうとして、弘法大師ゆかりの神泉苑が再興された。

 兵部卿であった大塔宮護良親王は鎌倉幕府を倒すための戦いの中で、幕府方の追及から逃れるためやむなく還俗なさっていたのだが、世の中がすっかり穏やかに収まったので(と、『太平記』の作者は書いているが、実際はそうでもなかった)、元のように天台座主として宗教界の指導者となり、仏法と王法(仏法に加護された朝廷)を受け継ぎ盛んにすることこそ、仏の道にもかない、父である後醍醐天皇のご意志にも沿うことであったのだが、「征夷将軍の位に備はつて、天下の武道を守るべし」(第2分冊、271ページ)と、強引に征夷大将軍になる許しを天皇に迫ったので、天皇は御不快に思われたが、親王の望みをいれて、とうとう征夷将軍に任じるという宣旨を下された。(鎌倉幕府の終わりごろになると、京都から皇室の男子を迎えて将軍とするという「親王将軍」が続いていたから、護良親王が将軍になることはそれほど奇異なことではないが、将軍は武家政治の頂点に立つ存在であり、幕府を開いて、再び公武の二元政治が復活する危険があることを、後醍醐天皇は警戒されたのであろう。護良親王はそれなりの武力を確保されていたのである。)

 このような事情なので、天下の平和を支える存在として慎重に身を処し、将軍の地位の威信を高めることに意を用いるべきであったのに、思うままにふるまい、おごりを極め、世間のそしりをしり目に、淫らな楽しみばかりに耽っていらしたので、天下の人は皆、世の中が再び乱れるのではないかと危惧したのであった。大規模な戦乱が終わった後は、弓矢をしまい、楯と鉾(武器)を袋に入れ、使用しないものだといわれている。ところが、特に用があるとも思われないのに、強い弓を射るものや、大刀を使うものだというと、それほどの手柄を立てた経歴もないのに自分の従者として配下に加えられていた。
 それだけでも問題なのに、これらの荒くれ者たちが、毎晩、京・白河(今日の鴨川以東の地)をうろうろして、辻切り(刀剣の切れ味を試すために人を斬ること)を行ったので、路上で出会った尼、法師、女性、子どもたちがあちこちで切り殺され、不慮の死を遂げるものが後を絶たなかった。これもただ、親王が足利高氏を討伐しようと思われていたために、兵を集め、武芸の訓練をされた結果起きたことであった。

 そもそも高氏卿は、後醍醐天皇と朝廷にこれまでずいぶん忠義を尽くしてきただけでなく、天皇のご信頼を笠に着ての分を過ぎた心得違いの振舞もなかったはずであるのに、護良親王が高氏を目の敵にしたのにはそれだけの理由があった。その前年(元弘3年=1333年)に官軍が六波羅を攻め落とした時に、大塔宮の執事である良忠の配下の者たちがどさくさに紛れて強盗行為を働いた、すなわち、京都市内の土倉(土塗りの倉をもつ高利貸業者)のところに押しかけて、財宝を運びだすという狼藉を働いた。市内の治安を守るために、高氏・直義兄弟の側から兵を出して、この賊たちを召しとり、六条河原で20人余りを処刑して、その首をさらした。そして高札に、処刑されたのが、大塔宮の執事である良忠の配下のもので、強盗を働いたので処刑したと書き記したの江で、良忠は心穏やかではいられず、あることないこと、あるいはないことないこと、悪口を護良親王に告げ続けた。こういうことが重なってくると、護良親王としても次第次第に高氏への敵意を募らせられ、信貴山にいらっしゃった頃から高氏追討を企図されたが、天皇の御許しが出なかったので、発言を慎まれていたのだが、さらに良忠が悪口を吹き込み続けたためであろうか、ひそかに諸国に向けて高氏追討の令旨を出して、兵を集められていた。

 高氏卿はこの次第を耳にして、後醍醐天皇の寵妃であった阿野廉子を介して天皇に上奏を行い、護良親王は帝位を奪おうとの野心を抱かれ、諸国の兵を集められています、その証拠ははっきりしていますと、宮が諸国に向けて発行された令旨を天皇のご覧に入れた。天皇は大いにお怒りになり、この宮を流罪にせよと仰せられる。そして宮中の清涼殿(中殿)で行われる和歌・管弦の御遊の会にことよせて、護良親王をお召しになった。親王の方ではそんなこととは気付かれないまま、少数の家来だけを連れて人目に立たないように参内されたのを、結城親光と名和長年が、天皇のご命令に従って準備を整えて、宮中の鈴の間の辺に待ち構えて、親王を拘束し、馬場殿に幽閉した。

 鎌倉幕府の追及から逃げている際には不思議な力を発揮されていた親王であるが、ここではあっさり捕まえられているのは、僧侶としての身分を棄て、修行から遠ざかっていた結果であろうか。『太平記』の作者はそのように考えていたと思われる。親王が高氏と敵対するに至った理由は、どうも親王の方に非があるのだが、親王自身よりもその執事である良忠が高氏に怨恨を抱いたのが波及したという書き方になっている。また作者は阿野廉子についてはここでも厳しい態度をとっているように思われる。自分の子どもを帝位につけようと思っている彼女にとって、実力も実績もある護良は目の上のたん瘤以上の存在であったはずである。
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