森田思軒訳『十五少年』

4月8日(月)晴れ

 蔵書の整理をしていて、岩波文庫に入っている森田思軒訳『十五少年』を見つけ、読み直してみた。もともとジュール・ヴェルヌ(Jules Verne, 1828-1905)が書いた『二年間の休暇』(Deux ans de vacances)を英訳から重訳したもので、思軒はこの翻訳の1896年に書かれた「例言」で細かい言葉にこだわらずに、大筋の意味をとって訳したと断っている。

 この翻訳は明治時代の少年たちを熱狂させ、本当にこのような冒険をしてみたいと思ったりしたと回想する人々もいる。この後、日本では『十五少年漂流記』という表題が定着したし、ヴェルヌの膨大な作品群の中ではあまり評価の高くないこの作品が日本では長く人気を博すことになったのは思軒の翻訳の力によるところが大きい。

 漢文調が目立つ翻訳であるが、翻訳者の努力によって、漢字の意味さえとっていけばむしろ分かりやすい文体となっていることに気づくはずである。と同時にヨーロッパの言葉を日本語に移し替えるときに、付きまとうさまざまな問題がこの翻訳を通じて感じられることも否定できない。

 例えば、武安(ブリアン)に対して莫科(モコ―)は「主公」と呼びかける。これは英語のMasterの翻訳と考えられる。Masterは英和辞書によれば、「坊ちゃん、若様、召使が14歳までぐらいの少年に対して用いる敬称」である。実際には『あしながおじさん』のジャーヴィス・ペンドルトンのようにかなりい年をしても、半ばふざけて、また半ば親しみをこめてMasterと呼びかけられる例がないわけではない。この表現にモコ―のブリアンへの気持ちが表れているように受け取られるが、英文、仏文が本当のところどうなっているのか、確かめてみたい気持ちにさせられる表現である。

 また感謝の気持ちの表現としては「多謝す」が用いられている。スケートに興じているうちに行方不明になった杜番(ドノバン)と虞路(グロース)を探しに出かけた弱克(ジャック)が今度は行方不明になり、2人が戻ってきてもまだ帰ってこないのでやきもきしていると、その姿が見える、武安が「多謝す、上帝」(137ページ)という。「上帝」という表現が漢文調である。これを「ありがとう、神様」としてしまうと、どうもわざとらしくなるかもしれない。かといって「よかった、有難い」などと訳してしまっても原文のニュアンスは伝わりにくい。

 武安と反目していた杜番が和解する場面で武安が「否な杜番、否な親友、余は幸ひにして今日の如く君の手を執るを得たり、余は君が余と偕(とも)に佛人洞に還ることをことを承諾するまでは、肯(あへ)て斯(こ)の手を放たざるべし」。杜番「諾、武安、敬(つつし)みて君の好意を承(う)く・・・」(163ページ)とあって、Yesは「諾」と訳されている。他の個所では「然り」という語も用いられ、これに対してNoは「否な」である。諾否の表現をめぐる苦心に、諾否がはっきりしている英語からはっきりしない言語である日本語への翻訳の難しさが出ているように思われる。

 以上のことからもわかるように、この翻訳は地の文だけでなく、会話も文語体で書かれていて、その分親しみにくいことは否定できない。しかしながら、使われている語句を検討することによって明治時代の翻訳家の苦心の跡をたどることができて、物語そのものの展開を楽しむ以外の愉しみを与えてくれるのである。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR