遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(11)

5月16日(月)曇り、一時晴れ〔21:23ごろ、地震があった。〕

 《六国史》は奈良時代から平安時代にかけて国家の事業としてまとめられた6部の歴史書:『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を総称して言う。この書物では、これらの歴史書の成立の経緯や内容の特徴を概観し、その編纂に携わった人々の姿を描きだそうとしている。すでに第1章「日本最初の歴史書」で『日本書紀』、第2章「天皇の歴史への執着」で『続日本紀』『日本後紀』、第3章「成熟する平安の宮廷」の『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』を論じた部分を取り上げてきたが、今回は最後の『日本三代実録』について論じた部分を検討することにしたい。

 『日本三代実録』は清和・陽成・光孝天皇の3代、天安2年(858)8月27日から仁和3年(887)8月26日までの30年間を50巻にまとめている。《六国史》の中では最も巻数が多く、1巻ごとの収録年月は平均して7か月弱で《六国史》の中では最も密度が高い。これまでの史書編纂の経験を踏まえ、9年弱の編纂期間で手際よくまとめられている。

 『日本三代実録』の編纂は宇多天皇(在位877‐897)によって命じられ、当初、撰者となったのは大納言源能有、中納言藤原時平、参議菅原道真、大外記大蔵善行、備中掾三統理平(みむねのまさひら)である。命じられたのは『日本紀略』によれば寛平4年(892)5月1日のことである。撰者の顔ぶれを見ると、その筆頭にいるのが源氏の源能有であることに遠藤さんは注目し、これを宇多天皇の摂関家以外の人材を積極的に登用しようとする政策と結びつけている。

 しかし能有が世を去り、宇多天皇も譲位され、醍醐天皇が即位されたので、事情が変わる。さらに昌泰4年(901)の昌泰の変で菅原道真が失脚し、延喜元年(901)『日本三代実録』を奏上したのは藤原時平、大蔵善行の2人であった。
 ここで遠藤さんは『日本三代実録』が対象とする3代の天皇の系譜的な関係に注目する。清和天皇は仁明天皇の孫、陽成天皇は曽孫であるのに対し、光孝天皇は子であり、世代をさかのぼっての相続が行われている。これは、陽成天皇が事件を起こして廃位されたことによるものであるが、即位後、一旦、自分の子どもたちをほとんど臣籍に下した光孝天皇は、周囲の人々の要請を受けて、自分の子どもである定省(さだみ)(後の宇多天皇)を皇族に復帰させて、皇太子とした。このような皇位の継承をめぐる問題は、政界の実力者であった藤原基経をはじめとする藤原氏がさらに力を伸ばして、摂関政治への道を開きつつあった政治情勢とも 関連するものであった。

 「宇多・醍醐二代の天皇にしてみれば、傍系から皇位を継いだのであるから、以前の皇統とは違うよき天皇としての実績を示す必要に迫られた。醍醐朝には勅撰で法典の『延喜式』や和歌集の『古今和歌集』がまとめられ、のちには聖代(すぐれた天子の治める、めでたい時代)と理想化された。歴史書『日本三代実録』はこの時代に完成したのである。」(162ページ)

 『日本三代実録』では状況の推移にかかわる詔勅(天皇が出した命令)や上表(臣下が奉った文書)をなるべく原文のままで掲載しており、それが結果として詳細な記事につながることとなった。また年中行事を詳しく記しているのは、これまでの歴史書とは異なる、この歴史書だけの特色であるという。

 歴史書は、過去を省察し、現代や未来を考えるための手本として読まれるだけでなく、日常の政務や行事を行う際に、先例を参照する手引きとしても用いられるようになった。このため、宇多天皇は菅原道真に命じて、過去の歴史書の記事を内容ごとに分類して構成する『類聚国史』を編纂させた。この書物には『日本三代実録』の内容も含まれており、その部分も道真が分類したのか、後人の増補によるものであるのかをめぐっては議論があるが、道真が失脚前に分類したという説が有力になってきているという。

 この時代(寛平・延喜年間)になると、官人の勤務日数や成績をもとに昇進を決めるという律令政治の原則が、家柄ごとにその職歴や昇進のあり方が決まるという方向に変わってくる。そうなると、それぞれの家柄の貴族たちが知っておく必要がある政務や行事がそれぞれの家柄によって決まるようになり、総合的な歴史ではなくて、家柄の職能に対応して専門化した日記を残せば、それが後の世代の参考とされるようになる。こうして、貴族社会の中での歴史書の役割は終わりに近づくのである。こうして、光孝天皇の崩御が『日本三代実録』の、そして《六国史》の最後の記事となった。

 しかし、その後も歴史書編纂の動きがなかったわけではないし、《六国史》を書き写し、読み継ぐ作業は行われたのであり、この書物の第4章は、《六国史》をめぐるその後の時代におけるさまざまな動きを追っている。

 遠藤さんは菅原道真の歴史への取り組みを高く評価されているが、前回に述べたように、道真は都だけが自分の活躍の場だと考えているところがあって、それは真の歴史家の態度とは言えないのではないかと思う。それから、藤原時平であるが、『大鏡』に「さるは、やまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを」(岩波文庫版、57ページ、それでも、事を処理する才略などは優れていらっしゃったのですが)と書かれているように、それなりの能力を備えた人物であったので、そちらの方にも目を向けておいてもよかったのではないかと思われる。 
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