三浦佑之『風土記の世界』(2)

5月9日(月)曇り後雨(はじめは小雨程度だったが、その後本格的に降りだす)

 『風土記』は律令政府が和銅年(713)に発した命令に従って、当時のわが国を形成していた各国がそれぞれの国についての情報を編纂して提出した書物であるが、今日では常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5ヵ国の分だけが伝わるにすぎず(それも多くは不完全な形でしか残っていない)、あとは後世の書物に引用されて伝わる逸文の形でしか伝わっていない。とはいうものの、それが古代についての貴重な情報に満ちていることは否定できない。前回(5月4日)に取り上げた、この書物の第1章「歴史書としての風土記」は、その『風土記』が律令国家による国史編纂事業が、当初は紀伝体の日本の歴史書編纂を目指す中で、<列伝>、<志>の部分に相当する情報を提供するはずのものであったとその成立事情を推測している。きわめて興味深い議論である。今回は、第2章「現存風土記を概観する」について取り上げることにしよう。

 既に述べたように、完全なものではないが、ほぼ全容をつかむことのできる形で現在残されている『風土記』は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5ヵ国分だけである。ここではまず、常陸国風土記が取り上げられている。
 常陸国風土記は「常陸の国の司の解 古老の相伝ふる旧聞を申す事」(34ページ)という表題から始まっており、それが官符に対する報告文書「解」であることがはっきりと示されているという。その内容については、続く第3章で詳しく見ることになるのだが、「物語的性格が強く、読み物として面白い」(35ページ)との特徴が指摘されている。成立年代について、本文中で地方の行政組織が国郡里制によって記述されていることから、官命を受けて4年以内にまとめられたのではないかと推測される。すると、その時期に国守であった阿部狛朝臣秋麻呂か石川朝臣難波麻呂が編纂の責任者であったと考えられるという。とすると、常陸国風土記は『日本書紀』の完成以前に編纂されており、『日本書紀』に即位の記述がない「倭武天皇=日本武尊」の記事を載せていることも、説明できると論じられている。

 出雲国風土記は和銅6年の宣命から20年後の天平5年(733)に、出雲国造であった出雲臣広嶋から朝廷に提出されたことが巻末にはっきりと記されている。そして、各郡にかかわる撰録者の名前もわかる。常陸国風土記に比べて、作成に時間がかかっているところに謎があるが、この謎については第4章で詳しい分析を展開するという。現存する他の風土記に比べると、地誌的な性格が強く、天皇が登場する伝承を一つも伝えていない点が目立つ。さらに、一方で独立した世界である出雲という認識と、他方で律令国家の一部であるという二重化された視座からこの風土記は書かれているという。おそらくはそのことと関連して、出雲風土記には『古事記』の中で大きな分量で語られている出雲神話が語られていない。しかし、そのこと自体が、『日本書紀』的な律令国家の論理によりこの書物が編纂されていることを物語るのではないかとも考えられるという。

 播磨国風土記の成立は常陸国風土記と同じく、和銅6年(713)から霊亀3年(717)のあいだと考えられるが、撰録責任者を特定することはできない。民間伝承として語られていたらしい地名起源譚が多く採録されていること、ヤマトの天皇たち、特にホムダワケ(応神天皇)の伝承が多く、その中に滑稽な話が含まれていること、出雲を本拠とする神(オホナムヂ、大汝命」がしばしば登場すること、土地の日よ草の状態が詳しく記されていることなどが特徴であるという。

 豊後国風土記と肥前国風土記は西海道(九州)の国の風土記であるが、今日残る逸文等も参考にして整理すると、西海道風土記の逸文には、律令国名が付けられた風土記(甲類風土記)、律令以前に九州全体を指していた筑紫国という呼称のもとでまとめられた風土記(乙類風土記)との2種類が見いだされるという。甲類風土記は、霊亀3年以降に、郡里制にかわって施行された郷里制によって各地方が記されており、『日本書紀』からの引用も見られることから、『日本書紀』が成立した養老4年(720)以降に成立したと考えられている。また大宰府によって最終的な撰録がなされたとも考えられている。
 今日風土記からの逸文として伝えられているものの中には、和銅6年の官命に応じて書かれた古風土記の一部を伝えているものもあるが、そうではない、後世に書かれたものも含まれており、判断が難しいという。しかし、引用した人物が面白いと思って抜き書きした部分であるだけに、現代の読者の目から見ても面白いものが少なくない。他の文献からは知ることのできない古代についての情報の宝庫であるといえる。

 この章はその最後に、「古老相伝旧聞遺事について」論じている。「古老」は律令国家ではなく、村落共同体の側の伝承の担い手となる存在であり、彼らが相伝する「旧聞遺事」を国家が集めようとしたのは、諸国を中央に対する地方として律令国家の一部として取り組むためであった。この時代には国家の側から語られる伝承があり、共同体の枠の外を漂泊する人々の伝承があり、また共同体の中で相伝されてきた伝承があった。そのような伝承のごく一端だけが書き留められ、残されているのであり、その点については慎重に対処すべきであるという。

 今回は、現存する風土記の概要を述べた部分のそのまた概要を述べるというだけのものになってしまった。」しかし、現存する5部だけをとってみても、風土記が多様性をもつ情報の集成であり、興味のある書物であることを知ることができた。次回から、ここの風土記の内容をさらに詳しく分析した章を読むことになる。お楽しみに。 
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こんにちは。

コメントありがとうございました。
私は歴史には全く疎いですので、ろくなコメント出来ませんが、
その土地土地で時代の流れを調べるのもおもしろいのでしょうね。
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