井上寿一『理想だらけの戦時下日本』

4月6日(土)曇り、夕方から風が強くなると予報されている

 昨夜(4月5日)、井上寿一『理想だらけの戦時下日本』を読み終える。この書物の主題は「国民精神総動員運動」であると著者は述べ、なぜこの運動を問題にするかというと、日中戦争がはじまり、次第に拡大していった時代と現代とでは国民心理が似ているからであると続けている。似ているのは「国民心理」であるとすると、書名にあるような理想をやたら追っているのは国民の方であるように思われ、何となく違和感を感じる。著者自身が、国民の間にあった意識の分裂、その背景である社会階層に対応した生活実態や戦争の影響の違いを書物の中で詳しく論じているので、「国民心理」という切り口にはどうも納得がいかない。「国民心理」を問題にする以上は、もう少し社会心理学的な調査結果を利用すべきであろう。

 著者は当時と現代の「国民心理」の3つの類似点を指摘している。①代表民主制に対する国民の懐疑。その根拠として選挙の得票率(投票率ではないか)の低さが挙げられている。②共同体の再生。(再生への期待とすべきではなかろうか。) この点については、著者の観察だけで、意識調査の結果のような根拠は示されていない。③社会の平準化。(これも論旨からすれば、平準化への願望とすべきであろう。) これも意識調査の結果としての数字説いた根拠は示されていない。つまりこの3つの類似点は実証的な根拠をもたず、著者が「空気」を読んだ結果にすぎない。読み物としては面白いが、研究としては薄弱に過ぎる出発点である。選挙の投票率の低下や、直接民主主義への期待を思わせる動きはウォール街の占拠に見られるように日本だけのものではない。また現実を無視して理想が先行する政策の強行(というのも単純すぎる割り切り方ではあるが)についても同様である。とすれば、この書物の出発点をめぐってはもう少し慎重な設定が必要であったのではなかろうか。

 以下、第1章が「『体を鍛えよ』といわれても」、第2章が「形から入る愛国」、第3章が「戦前昭和のメディア戦略」、第4章が「気分だけは戦争中」、第5章「節約生活で本当に国を守れるのか?」、第6章「戦争の大義はどこへ行った?」、第7章「ファシズム国家になれなかった日本」という構成で、国民精神総動員運動の展開が国民のどのような反応を呼んだかが、当時の資料を踏まえて語られる。それぞれ興味深い記述に満ちているとはいうものの、この時代の思想動向や大衆運動をめぐる先行研究についての意識的な言及がなく、ただ資料だけが読まれているように思われる。資料がどのような基準で選択されているかについても述べてほしかった。

 興味深く読んだのは国防婦人会と愛国婦人会の対立について言及している個所である。もう55年ほど昔になるが、母の実家を訪問したことがあり、その時に家の門柱に祖母の名前と愛国婦人会名誉会員という文字を刻んだ標識が残されていたのを思い出した。祖母が戦争について、あるいは婦人会の活動についてどのように考えていたかを知る機会は失われてしまったし、取り戻すことはできない。第二次世界大戦が終わって10年以上がたち、愛国婦人会はもう存在していなかったはずであるが、だからと言って標識を取り除くという手間をかけようという人もいなかったのである。どうも人間の意識は簡単に量り知ることのできるものではない。

 第3章で映画について取り上げ、洋画の輸入禁止や日本映画の振興策について論じているが、映画愛好者からするともう少し詳しく正確に書いてほしい個所が散見される。「マルクス三兄弟」(94ページ)とあるが、「マルクス兄弟」というのが一般的。必ずしも三兄弟で活動していた訳ではない。フランス映画『赤ちゃん』はレオニード・モギー監督作品で、ミシェル・モルガンのデビュー作。このあたりの作品については川喜多かしこのような当時の関係者の証言を読むべきであった。同じ95ページの写真はジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帳』についての記事であることを記すべきであろう。「スミス氏首都へ行く」(99ページ)は『スミス都へ行く』とすべきであろう。映画以外についても、改善を要する記述が少なくないと思われる。

 以上、文句を言えば言えるのだが、それよりも自分なりにここで書かれた事柄について考えを掘り下げることの方が重要ではないかと思ったことを最後につけ加えておく。
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