『太平記』(104)

5月8日(日)晴れ

 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は都にお戻りになられ、武家政治復興の機会を窺っているとして足利高氏の動きを警戒し、信貴山に留まって兵を集めていらっしゃった護良親王も元弘3年(1333年)6月に大軍を従えて入京された。その後、後醍醐天皇の隠岐配流に伴って諸国に配流されていた皇族・公卿の人々が帰京し、天皇の隠岐配流中に不遇だった人々はわが世の春を謳歌することとなったが、公家の下僕のように扱われるようになった武士たちの間には、再び武士の世の中になることを望む声が上がりはじめた。8月に論功行賞が行われたが、後宮の内奏による不正が多かった。元弘4(建武元年、1334年)正月、大内裏の造営が決定された。兵乱の直後に諸国に税を課し、紙銭を発行してまで行われる大内裏造営の企てには、眉を顰めるものが多かった。

 この年の春(『太平記』の作者は元弘3年の春と記しているが、北条氏滅亡後の元弘4年(1334年)の春というのが正しい)、筑紫、河内、伊予などで北条氏の残党が決起したが、「これらの凶徒、法威を武力に加へて退治せずは、早速の静謐堅かるべし」(248ページ、これらの反乱者たちに対しては、仏法の威力を武力に加えて退治すれば、すぐさまに世の中の平和がもたらされることは確実である)と、とり急いで紫宸殿の皇居に壇を構え、竹内僧正(曼殊院の門跡)であった慈厳(じごん)をお召しになって、天下安泰の修法を行わせられた。

 この法を行っている間、武装した武士たちが内裏の四方の門:建春・建礼・宜秋・削平門を堅め、内弁(公事を奉行する公卿の首席、当時、左大臣であった二条道平)、外弁(げべん、公卿の次席、右大臣であった近衛経忠であろうか、内弁は、御所の正門である建礼門のすぐ北にある承明門の内側で、外弁は外側で政務を行ったのでこのように表現されるという)、さらに近衛府の武官たちが紫宸殿の階下に居並び、宮中に仕える楽師たちが音楽を演奏し、武士たちが紫宸殿の南の庭の左右に立ち並んで、剣を抜いて四方を鎮めようとするという厳重な警戒態勢が敷かれた。四方の門の警護に当たったのは、結城親光、楠正成、佐々木(塩谷)高貞、名和長年である。南の庭で警護に当たるのは右に三浦介(高継)、左に千葉介貞胤と決められていた。(玉藻の前伝説で、絶世の美女を退治する役を仰せつかったのが三浦介と千葉介であったという伝説や、頼朝挙兵の際に両者が果たした役割から、南関東における武士の二大名門とされてきた家柄同士ではあるが、この2人は仲が悪かった。) 両者の中が悪かったために、両者ともに出仕を拒むこととなった。「天魔の障碍(てんまのしょうげ)、法会(ほうえ)の違乱(いらん)とぞなりにける」(第2分冊、249ページ、仏法を妨げる魔物の障害で、法会に混乱を生じた)。

 「後に思ひ合はするに、これぞ早や、天下久しく無為(ぶい)になるまじき表事(ひょうじ)なりける」(第2分冊、249ページ、後で思い合わせてみると、これこそ早くも、天下が長く太平になることのない前触れであった)と『太平記』の作者は記す。とはいうものの、この修法は功を奏したようで、各地の反乱軍は間もなく鎮圧された。

 東国も、西国も平和が取り戻されたので、筑紫からは大友、少弐、菊池、松浦の武士たちが大船700艘に乗り込んで上洛してきた。東国からは新田義貞がその一族郎党7,000余騎を引き連れて上洛してきた。このほか、各地の武士たちが都に上ってきたので、「王城の富貴、日来(ひごろ)に百倍せり」(第2分冊、250ページ)と記されている。

 全体の数が多いので、個々の恩賞を決定するのには時間がかかるが、大功をあげたものを選んで、恩賞を与えるべきだということで、足利高氏に武蔵、常陸、下総の3か国、その弟の直義に遠江、新田義貞に上野、播磨、その弟の義助に駿河、楠正成に摂津、河内、名和長年に因幡、伯耆の2か国が与えられた。

 そのほかに、公家たちが2か国、3か国を与えられていた中で、六波羅を数次にわたって攻撃し、その陥落に大きな役割を演じた赤松円心についてはその本拠地である播磨国の佐用荘を安堵されただけであった(事実としては、播磨の守護に任じられたのだが、赤松一族と護良親王との結びつきが後醍醐天皇とその側近に警戒されて、召し上げられたのである)。その後、武家方が宮方に再び反旗を翻した際に、円心が武家方についたのはこの時の恨みが原因であったと噂された。少数の例外はあったが、恩賞は公家に有利になるように割り当てられた。そこで、公家やその家臣たちは大いに羽振りがよくなったのである。

 その中でも特に目立ったのが千草忠顕であった。彼は和漢の学芸に通じた六条内府有房の子であり、本来、文学の道に進むべき人物であったのが、若いころから、「わが道にもあらぬ笠懸、犬追物を好み、博奕、淫乱を事とせられる間、父有忠卿、父子の義を放たれて、不孝(ふきょう)の由にてぞ置かれける」(251ページ、自分の家の道でもない笠懸=傘を的にする騎射、犬追物=犬を追って的にする騎射を好み、賭け事と淫らな遊びに耽っていたために、父である有忠卿は、父子の縁を切られて、勘当されたのであった)。とはいうものの、この人物には一時だけでも栄華の花咲く時期が生まれるという過去の因縁があったのであろうか、後醍醐天皇が隠岐に遷幸された際にお供し、さらに六波羅への討伐軍の大将となった(その時の不甲斐なさを児島高徳に嘆かれたことは第8巻に記されている)。とにかく、後醍醐天皇は忠顕の忠勤を評価されて、大国3か国、闕所(けっしょ=幕府方からの没収所領)数十か所を拝領したので、財政的に豊かになり、その驕る有様は周囲の人々を驚かせるものであった。

 自分の邸宅に配下の4位・5位の貴族たち、武士たちを呼び集めて酒をふるまったところ、その数は300人を超えた。これだけの饗応は、多くの蓄えがなければできないはずである。また、邸宅の厩にはよく超えた立派な馬が5/60頭もつながれていた。宴会が終わって、まだ遊び足りないと思うときは、数百騎を従えて、都の北の方に出かけて、小鷹狩りでその日を過ごした。その際に身にまとう衣装が華美で贅沢であったので、心ある人は眉をひそめたのである。

 『太平記』の作者は建武の新政が、倒幕にかかわる恩賞を公家に有利に、武家に不利に与えたことで、多くの武士が不満を抱いたと考えているが、それ以外にも新政の問題点はあったはずである。この点をめぐって、赤松円心と千種忠顕への処遇が対照的に描かれていて、この後の波乱を予示しているのは作者なりの工夫であろう。
 森茂暁『太平記の群像』(角川文庫)によると、新政が実現してから後、忠顕の活動を示す文書は少なくなり、建武元年(1334年)以降はますます乏しいという。あるいは、新政権の中でもその人物と仕事ぶりについての不信が増大して、主流から外されていたのであろうか。森さんは忠顕が、日野家における資朝同様に、「傍系の反逆児」であったために、同じく皇統の中での「傍系の反逆児」であった後醍醐天皇の信認を受けたのではないかと推測している。しかし、資朝に比べると忠顕は、天皇の信認の篤い人物ではあったが、それにこたえるだけの能力はなく、新政のもとでの厚遇にのぼせ上がって、忽ち馬脚を現してしまったという印象がある。 
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