三浦佑之『風土記の世界』

5月4日(水)早朝に雨が降った跡が残っていたが、その後は晴れ、風が強く、温暖。

 三浦佑之『風土記の世界』(岩波新書)を読み終える。これまで当ブログで9回にわたって取り上げてきた(まだ完結していない)遠藤慶太『六国史 日本書紀に始まる古代日本の「正史」』と重なる部分が多く、日本の古代史についてどのように取り組むべきかをめぐり考えさせられるところが少なくない。

 この書物は次のような構成をとる:
 はじめに
第1章 歴史書としての風土記
第2章 現存風土記を概観する
第3章 常陸国風土記――もう一つの歴史と伝承の宝庫
第4章 出雲国風土記――神の国ともう一つの文化圏
第5章 語り継がれる伝承――播磨国風土記と豊後国・肥前国風土記
 まとめにかえて

 今回は、第1章までの内容を取り上げることにする。「はじめに」では今日『風土記』と呼びならわされている一連の文書が、8世紀の初めに地方の国々が中央政府に提出した報告文書であり、正式には「解(げ)」と呼ばれるべきものであることが指摘されている。その成立にかかわる詳しい事情は第1章に譲られているが、この第1章は遠藤さんの『六国史』(或いはそれに先行する坂本太郎『六国史』)とのかかわりにおいて、詳しく読み込むことを要求される内容を含んでいる。

 第1章では、われわれが『風土記』と呼びならわしている書物が編纂されたのは、律令政府が和銅6年(713年)に発した命令によるものであると述べている(これは「日本史」の授業で習ったかもしれない事柄である)。ここで発せられた官命の内容を整理してみると
 1 郡や郷の名に好ましい漢字をつける
 2 特産品の目録を作成する
 3 土地の肥沃状態を記録する
 4 山川原野の名前の由来を記す
 5 古老が相伝する旧聞遺事(昔から伝えられている不思議な出来事)を載せる
という5項目にまとめられる。

 このような命令がなぜ発せられたかをめぐっては、律令国家が地方の事情をより詳しく把握しようとしたという理由のほかに、史書編纂事業とのかかわりが想定できるという(遠藤さんの『六国史』さらに、それ以前の坂本太郎の『六国史』における議論と矛盾しない――ということは、学界の通説を踏まえた議論である)。
 そして『日本書紀』の成立をめぐり、その書名を踏まえた少し大胆な推測が展開される。もともと日本の歴史は紀伝体で編纂されようとしたのであるが、紀伝体の歴史書を構成する紀・志・伝のうち何らかの理由で紀だけが成立し、その他の部分の編纂が中断されたまま、史書の編纂は終わったものとみなされてしまった。そこで、後世の歴史書は紀だけで編纂されることになったと考えられている。
 「正史「日本書」が完成するには「日本書」志と「日本書」列伝とがそろっていなければならない。」(13ページ)のだが、実際に、志や列伝の編纂作業が着手されたことを傍証する資料はほとんどない。ただ『日本書紀』の持統天皇5年の18の氏族にその先祖の墓記を提出させたという記述、或いは「撰善言司」という役所を設けたという記述が、歴史編纂事業とかかわっているのではないかと想像できるという。さらに列伝の一部を構成したであろう何人かの人物が想定できるという。それは日本武尊であり、聖徳太子であり、藤原鎌足である。さらに、そのような列伝に収められるべき人物として記述された、あるいは創作された可能性があるのが浦島子であるとも論じられている。そして今日、『風土記』と呼ばれているものは、地理志として正史の志の部分を構成すべく編纂されたものではなかったのかというのである。

 歴史学者である遠藤慶太さんが慎重に口ごもっているところを、神話や伝承の研究家である三浦さんは大胆に議論を進めていっているという印象が残る。(そういえば、三浦さんは作家の三浦しをんさんの父君である。もともと三重県のご出身のようだが千葉大学の先生をされていた当時に、房総半島や茨城県で研究を展開されたためであろうか、この書物でも房総半島の伝承への関心が目立つ。三浦といえば、三浦半島を拠点として、房総半島にも勢力を伸ばし、中世の南関東で活躍した豪族を思い出すが、そういうことも著者の念頭にあるのかもしれない。) 
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