『太平記』(102)

4月27日(水)曇り

 鎌倉幕府の滅亡後、護良親王は信貴山に留まって兵を集められて、その勢いは天下の大半を圧倒しようかというものであった。親王がなかなか入洛されないので、後醍醐天皇は坊門清忠を遣わして、僧籍に戻るように命じられたが、親王は足利高氏の野心を警戒してこれを拒まれた。(吉川英治が『私本太平記』で描いているように、天皇の命令に従わないというのは、異例である。) 天皇はやむなく、親王の征夷将軍職への就任を認められ、元弘3年(1333年)6月13日、護良親王は大軍を率いて入京された。その後妙法院宮(尊澄法親王=宗良親王)、万里小路藤房、円観、文観らが配所から帰洛し、後醍醐天皇の隠岐配流中に不遇だった人々は、わが世の春を謳歌した。一方、公家の下僕のように扱われるようになった武士たちは、再び武家の天下となることを望むようになった。

 この年、8月3日から、倒幕の戦いの恩賞を与えるために、その上卿(議事の主席の公卿)として洞院左衛門督(かみ)実世卿が任じられた。そこで全国の武士たちが、軍功の証拠を持ち寄り、恩賞を望んだが、その数は何千、何万にのぼった。ところが、じっさいに功績のあるものは、自信があったのでへつらったりしなかったが、そうでないものは奥にいる貴人や実権を握る家来に媚びて、偽りの奏上をしたので、数か月の間にようやく20人余りの恩賞を決めたのであったが、恩賞が公正に行われず、すぐに恩賞の所領を召し上げられた。

 そこで上卿を交替させようということになり、万里小路藤房卿が上卿となって事務を引き継いだ。藤房はその任につくと、それぞれの忠義のほどや、戦功の深浅を正確に評価して、公正に恩賞を与えようとしたのだが、後宮からひそかに天皇に奏上して策をめぐらす輩が絶えず、もともと朝敵で最後の方になって宮方に寝返ったものがその所領を安堵されたり、大した戦功もないものが5カ所、10カ所の所領を給わるなど不公平な沙汰が繰り返され、藤房は天皇に何度も諫言を申し上げたのであったが、お聞き入れにならなかったために、病気を理由にしてその任から降りてしまった。『太平記』の作者は藤房を良識のある硬骨漢として描きだしている。(彼の辞任によって、後醍醐天皇の新政の問題点が明らかにされたはずであるが、この程度のことで問題が認識されるわけではない)。

 そのまま放っておくわけにもいかないとして九条民部卿光経(みつつね)が次の上卿に任じられ、恩賞の処理にあたらせた。光経は、大将たちにその部下の軍勢の勲功の有無を詳しく訪ね、功績が明らかな武士には必ず恩賞を与えるようにしようとしたのであるが、北条嫡流家の領地のすべては皇室領とされ、その弟の北条泰家の領地は護良親王のものとされ、大仏貞直の遺領は後醍醐天皇の寵妃である阿野廉子の所領とされた。それだけでなく、北条氏の所領、北条氏に従った人々の所領をそれほどの功績も上げなかった郢曲歌道の家、蹴鞠(しゅうきく)能書の輩(=今様などの雑芸や蹴鞠や書をもっぱらに従う輩)、さらに朝廷の武官や文官、女官や官僧に至るまで、所領の1,2カ所を後宮から天皇に奏上してことを取り計らっていただいたので、今は66か国ある日本の国土の中で、武士に恩賞として与えるべきごく狭い土地さえも、空いた土地はなくなってしまった。こういうわけで、光経も心中は公平な恩賞を心掛けていたのだが、何もできないまま時を過ごすのであった。

 また雑訴(様々な訴訟)の処理のために、郁芳門(ゆうほうもん)の左右の脇に、決断所を設けた。その議事に携わる人々として、学才に優れた公卿殿上人や、漢籍や法律を家学とする太政官の役人たちを3組に編成して、月に6度決断の申し渡しをすることを定めた。これは制度としては整ったものに思われたが、世を治め国を安泰にする政治とはいえなかった。後宮を通しての内奏により、原告が天皇の許可を得ると、決断所では被告に勝訴の決定をする。決断所で本来の所有者に土地の所有を認めると、内奏によりそれを恩賞として別の者に与える。このような混乱が続いて、1カ所の領地に4,5人の所有者がいるという騒ぎになり、収まりようがなくなった。

 混乱が続くうちに、7月の初めから後醍醐天皇の中宮である禧子の体調が思わしくなかったが、8月2日にお亡くなりになった(10月12日に亡くなられたと『尊卑分脈』には記されているそうである)。詳しいことは森茂暁『太平記の群像』を読んでいただきたいが、「禧子の生涯は後醍醐天皇によって翻弄されたといってよい」(森『太平記の群像』、角川文庫版、30ページ)というのが大まかな評価ということになるだろう。11月3日には東宮が亡くなられたと『太平記』は記すが、この時期後醍醐天皇は皇太子を立てられておらず、光厳天皇のもとで皇太子であった康仁親王はまだ御健在であった。政治の乱れが、異変となって表れるというのが『太平記』の作者のものの見方であり、そのために事実でないことも記されたと考えられる。これはただ事ではなく、これまでの戦乱で死亡した士卒の亡霊の怨害であると四大寺(=東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)で写経を行わせ、法勝寺で供養が行われた。

 新政府のもとで、武士たちに与えられるはずの恩賞をめぐり、不正が絶えなかったことは、政治的な混乱を招き、新政権の将来に暗雲を漂わせることになる。それを自分たちの失敗と考えずに、怨霊の仕業とするあたりに、この時代の人々の考え方が現われているのである。
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