『太平記』(101)

4月24日(日)曇り時々雨

 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は都に戻られたが、護良親王は信貴山に留まって兵を集められていた。後醍醐天皇は坊門清忠を親王のもとに遣わして、僧籍に戻るように命じられたが、親王は足利高氏の野心を警戒して拒まれた。天皇から征夷将軍職を許された護良は、元弘3年(1333)6月13日、大軍を従えて入京された。

 その後、妙法院(護良親王の同母兄弟の尊澄法親王≂宗良親王)が四国の武士たちを率いて讃岐から上洛された。尊澄法親王は兄とは対照的な性格の持ち主で、配流中も作歌にいそしまれていた。都に戻ってからは天台座主に復帰されたが、これらのことは『太平記』の作者によって省かれている。
 万里小路中納言藤房は、笠置合戦の後、常陸の国に流されていたが、その際の預人(あずかりうど)であった小田高知(治久と改名)を伴って上洛した。弟の東宮大進(東宮坊の三等官)季房も同じく常陸に流されていたが、病死していて、兄弟で明暗を分けた。父親である宣房は喜んだり悲しんだりで、老いの涙でその袖を濡らすのであった。

 法勝寺の円観上人は、元弘の変で奥州に流され、結城宗弘に預けられていたが、預人である宗弘とともに上洛してきたが、天皇は上人が無事に戻ってきたことをお喜びになって、(上人の配流中の面倒をよく見たということで)、やがて結城に本領安堵の綸旨を下されたのであった。円観は森茂暁『太平記の群像』(角川文庫)によれば、当時の宗教界の大物であったと考えられ、建武新政のもとでの動向はよくわからないが、その後は宮方と武家方の融和に尽力したりしている。また、『太平記』の成立に大きな役割を演じたという説もある。文観上人は硫黄島(鹿児島県鹿児島郡)から、忠円僧正は越後の国から都に戻ってきた。文観は後醍醐天皇、その後は後村上天皇の護持僧を務めるなど宮方と強く結びついた僧侶であり、その後も天皇の側近の僧として活躍した。

 天皇が笠置に落ち延び、その後幕府にとらえられて隠岐に配流された際に官を解かれたり、停止されたりした人々、死罪や流刑となった人々の子孫たちはあちこちから呼び出されて、(重要な役職につき)これまでの不満うっぷんを一度に晴らしたのであった。 「されば、日来(ひごろ)武威に誇つて、本所を蔑如(ないがしろ)にせし権門高家の武士ども、いつしか諸庭の奉公人となつて、或いは軽軒香車の後(しりへ)に走り、或いは青侍格勤(せいしかくご)の前に跪(ひざまず)く」。(第2分冊、219ページ、そうであるから(公家たちの勢威が盛んになったので)、これまでは自分たちの武力の威勢を誇って、本所(荘園領主である公家や寺院)をないがしろにしてきた官位の高い、あるいは名門の武士たちは、いつの間にか公家の諸家の庭に集まる奉公人となり、或いは軽快で美しい車の後を追って走り、或いは公家に仕える侍の前に跪く有様である。)
 「世の盛衰、時の転変、嘆くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下なれば、諸国の地頭、御家人は皆奴婢雑人(ぞうにん)の如くなるべし。」(第2分冊、219-20ページ、世の盛衰、時の転変は嘆いても思い通りにはならないのが世の常であると知ってはいても、今のように公家が天下をまとめる状態では、諸国の地頭、御家人は皆公家たちの身分の低い使用人のようになってしまうだろう。)
 「あはれ、いかなる不思儀も出で来て、武家四海の権を執る世の中にまたなれかしと、思はぬ人はなかりけり。」(第2分冊、220ページ、悲しいことだ。どのような異変が起きて、武家が天下の実権を握る世の中にまたなってほしいと思わない者はいなかった。)

 北条氏が鎌倉幕府の実権を握っていた時代に逼塞していた公家や寺院が我が世の春を謳歌しはじめる一方で、武士たちの間には不満が立ち込め始める。実際に幕府を倒したのは自分たちだという意識があるだけに、この不満に目をつぶることはできない。天皇とその側近の公家たちは、この事態にどのように対処しようとしたか、それはまた次回に語ることにしよう。
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