『太平記』(100)

4月19日(火)晴れ

 この連載も100回に達した。これまで『太平記』と並行して、時代についての観察を記してきた『増鏡』は今回の主な記事である護良親王の入洛をもって、その物語を終える(未完に終わっているという意見もある)。物語が一段落して、また新しい物語が始まろうとしている。

 鎌倉幕府の滅亡後、護良親王は信貴山に留まって兵を集めていた。後醍醐天皇は僧籍に戻るように命じられたが、護良は足利高氏の野心を警戒して拒んだ。天皇は高氏追討については認めなかったが、しぶしぶ将軍職就任を認めたのであった。

 「これによつて、宮の御憤りも散じけるにや、6月6日、信貴を御立ちあつて、八幡に7日ご逗留あつて、同じき13日、ご入洛あり」(第2分冊、217ページ)と『太平記』の作者は記す。このあたりの記述は、口語訳の必要がないほど平易である。親王の上洛の様子はまことに壮観であったという。

 「その行列の行粧(ぎょうそう)、天下の壮観を尽くせり」(同上)と親王の行列の様子が描かれている。先頭を進むのは赤松入道円心の率いる1,000余騎の武士たちである。次に、大塔宮の執事である殿法印良忠が700余騎で馬を進めた。3番目に進むのは、後醍醐天皇の側近であった四条少将隆資で、500余騎を引き連れている。その次に、華やかに武装し、太刀を帯びた護衛の兵士たちを500人、二列に並ばせて続かせた。

 その次に、親王が姿を現す。「宮は、赤地の金襴の鎧直垂(よろいひたたれ)に、火縅(ひおどし)の鎧の裾金物(すそかなもの)に、獅子の牡丹の陰に戯れて前後左右に追ひ合ひたるを、草摺長(くさずりなが)に召され、兵庫鏁(ひょうごぐさり)の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘懸けたるを(太刀懸けの)半ばに結うて下げ、白箆(しらの)に節影(ふしかげ)ばかり染めて、鵠(くぐい)の羽を以て矧(は)ぎたる征矢(そや)の26差したるを、筈高に負ひなし、二所籐(ふたところどう)の弓の銀のつく打つたるを十文字に拳(にぎ)つて白瓦毛(しろかわらげ)なる馬の尾頭(おがしら)あくまで太くして逞しきに、沃懸地(いかけじ)の鞍を置いて、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)のただ今染め出したるを芝打長(しばうちなが)に懸けなし、侍12人に諸口(もろぐち)を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭しと歩ませける」(第2分冊、217-8ページ、宮は赤地に金糸を織り込んだ絹織物でできた鎧直垂=鎧の下に着る装束に、緋色の糸で縅した=綴った鎧の袖や草摺の裾の飾りの金物に、獅子が牡丹の影でふざけて前後左右に追いかけ合っている様子を、草摺=鎧の道につりさげて腿を防御する武具を長く垂らしてお召しになり、兵庫両で作られたたちの帯につける銀の鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の鞘の覆いを懸けたのを左側の草摺の太刀懸け半ばに結び付けて下げ、矢竹の節のくぼみだけに少し漆を塗り、くぐい=白鳥の矢羽をつけた征矢=実戦用の矢を26本差したのを、矢の先端を高く突きだして箙(えびら)を背負い、二カ所ずつ間を置いて籐を巻き、銀のつく≂つがえた矢を固定する金具をつけた弓を、腕と直角に握り、白みを帯びた瓦毛の馬の尾や頭があくまで太くたくましいのに、厚い総飾りの鞦=馬の尻にかけるひもの色鮮やかなのが地面につくくらいに長く懸け、12人の武士に馬の両側から手綱をひかせ、馬を悠然と、都の小路が狭く思えるほどに歩ませた)。親王の行列同様に飾り立てた文章で、読み取りにくいが、護良親王の軍装が華美であること、にもかかわらず、いつでも先頭に取り掛かる用意がある用意があることを示そうとしていることはわかる。

 何かあってはと、後醍醐天皇の側近中の側近である千種忠顕が1,000余騎を率いて宮の背後を固めていた。さらに、その後から紀伊や熊野地方の武士たちを中心に畿内、近国の兵たちが続いて、総勢20万7千余騎が一日がかりで都を練り歩いたのであった。

 「時遷り事去つて、万(よろ)づ昔に替はる世なれども、天台座主、忽ちに将軍の宣旨を給はつて、甲冑を帯し、随兵(ずいひょう)を召し具して御入洛ありし有様は、珍しかりし壮観なり」(第2分冊、218ページ)と『太平記』の作者はその感想を記している。護良親王の一行の入洛の様子は『増鏡』にも記されているが、『太平記』のほうが圧倒的に詳しい。両者ともに、このあと、鎌倉幕府に依って都を追われていた人々が戻ってくる様子を描くのだが、『増鏡』はそこで、筆を擱く。(『太平記』が世の中の移り変わりをどのように描くかは次回以降に記すことにする。) 『増鏡』は他の鏡物と違って、結びに相当する部分がなく、世の中の転変を歌った何者かの歌を引き合いに出して終わっている。

 すみぞめの色をもかへつ月草のうつればかはる花の衣に
(墨染の法衣をも華やかな色の衣に変えました。月草が移ると、衣の色が変わるように、月日が推移すると人の心も変化して)
(『増鏡 下』講談社学術文庫版、379ページ、381ページ)

 『増鏡』における歴史は推移するもの、有為転変は世の習いという考えも、時代と、世情の変化に対する一つの感想ではあろうが、『太平記』には全体として、もう少し逞しいものの見方がみられるように思うし、そのあたりのことを今後とも書いていきたい。 
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