遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(8)

4月18日(月)晴れ後曇り後雨

 この書物は、序章「六国史とは何か」で《六国史》(『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』)の全体について概観した後に、第1章「日本最初の歴史書」で『日本書紀』の構成とその性格、成立にあたって利用された史料などの問題を、また第2章「天皇の歴史への執着」の初めの2節で、『続日本紀』の成立事情と内容とのかかわりについて考察している。今回は、その後をうけた第2章の残りの部分、『日本後紀』について論じている部分を取り上げる。

 「第三の国史『日本後紀』は、桓武天皇の治政後半と平城・嵯峨・淳和、延暦11年(792)正月丙辰朔(1日)より天長10年(833)2月乙酉(28日)までの42年間を全40巻に収めていたはずである」(100ページ)。著者が「はずである」と書いているのは、『日本後紀』は《六国史》の中で唯一散逸して、現代では、江戸時代に発見された「桓武紀」4巻、「平城紀」2巻、「嵯峨紀」4巻が伝わっているだけだからである。散逸した部分について、六国史を記事別に再分類した『類聚国史』や六国史などを要約した『日本紀略』などに引用された個所からの復元作業が行われ、「現在では残された10巻と収集された逸文を合わせて、『日本書紀』の全貌がほぼ明らかになっている」(101ページ)と著者は言う。何が書かれていたかはほぼ明らかになったであろうが、それが具体的にどのように記述されていたかはわからないというのが本当のところではないか。とにかく復元作業の結果については、もう少し具体的にまとめてほしかったという気がする。(さらに言えば、江戸時代に『日本後紀』の一部が発見された過程をめぐっても、複数の説があるようで、その点についても踏み込んでほしかった。)

 『日本後紀』の編纂上の問題点は、天皇の代替わりごとに史書の編纂担当者が任命され直し、いわば編纂作業の仕切り直しがなされたことにあると著者は言う。「三人の天皇にわたった編纂事業で一貫して参加していたのは、藤原緒嗣(774-843)ただ1人である。そこから学界では、『日本後紀』の性格を藤原緒嗣の個性から理解する見方が提起されている。果たしてそれが妥当なのか」(104ページ)と著者は問いかける。なお、前後の文脈からこの見方を提起したのが坂本太郎であると理解できる。そうならばそうと書けばいいじゃないかという素朴な疑問が脳裏を去らない。

 さて「『日本後紀』の特徴は、人物伝での評価が厳正なことである。・・・位階をもつ官人の伝記、つまり「薨卒伝」にそれを見ることができる」(同上)と著者は言う。これは、通説を踏まえたものである。なお、「薨」は親王および3位以上の貴人の死に、「卒」は諸王と4位・5位の人の死について用いる語である(11ページ参照)。<紀伝体>の歴史書の場合、人物評は列伝の中に収められるが、《六国史》は編年体なので、編年の中にはめ込まれた死亡記事に関連してその人物が論評される。『日本書紀』ではこのような人物評は行われていないが、『続日本紀』の後半から顕著になってくるという。

 『続日本紀』における人物評には、歯に衣着せぬ形のものが多いことを、著者は実例を挙げて例証する。これも通説を踏まえており、さらにこのような論評だけでなく、しかるべき人物については、相応の評価をしていることも述べたうえで、人物評における特色を、聡明であり頑固でもあったが、複雑で屈折した官人としての履歴を辿った藤原緒嗣の個性と結びつけている(これも通説に従っているようである)。

 問題は、『続日本紀』における平城天皇への厳しい論評をどのように評価するかである。著者が紹介するところによると、坂本太郎は、平城天皇が桓武天皇の崩御後、新しい年の初めを待たずに改元を行った(当年改元)への批判と、平城天皇への崩伝に着目しているという。中国では、前皇帝の遺徳をしのんで崩じた年のうちは改元を行わず、新しい年を迎えて改元する(踰年改元)のが通例である。(道徳的な意義はさておき、踰年改元のほうが計算には便利だと思うのだが、日本ではいまだに当年改元を行っている。したがって、『続日本紀』における批判は実際的な意味は持たなかったことになる。この点について、著者は触れていない。)
 
 もう一つは平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位後、再び政治に情熱を燃やし、いわゆる〈薬子の変〉の当事者となったことについてで、それについては著者も指摘しているように、直接ズバリとは書かずに、遠回しの書き方で批判を加えている。結局、兄弟の対立は弟である嵯峨天皇の勝利に終わり、しかも嵯峨天皇は『日本後紀』の完成に至るまで御存命であった。このため、平城天皇に対する厳しい評価も、嵯峨天皇(上皇)の視線を意識したものではなかったかと論じる。編纂者の個性よりも、編纂を命じた天皇の歴史に対する姿勢の方を重く見るべきではないかというのが著者の論点のようである。

 坂本と著者が、歴史家の個性というものをどのように考えているかがはっきりしないので、議論が曖昧になっているところがある。この点と関連して、第2章を「天皇の/歴史への執着」と読むべきか、「天皇の歴史への/執着」と読むべきか、前者は天皇の視点から、後者は編纂者の視点から、編纂作業を見ることになるので、このように紛らわしい、どちらとも読むことのできる標題をつけるべきではなかったと思うのである。『日本後紀』が批判精神に満ちた書物だから散逸したと考えることもできるわけで、このあたり、さらに研究が必要とされるのではないだろうか。
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