『太平記』(99)

4月17日(日)午前中から昼過ぎにかけて風雨激し。その後、晴れ間が広がるが、風が依然として強かった。

 鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇は京都に戻られた。

 『太平記』第12巻は次のように書きだされている:
 「元弘癸酉(きゆう)の歳(とし)、四海九州の朝敵残る所なく亡びしかば、先帝重祚(ちょうそ)の後、正慶(しょうぎょう)の年号は廃帝のの改元なればとて、これを棄てられて、本(もと)の元弘に返さる。その3年の夏の比(ころ)、天下一時(いっし)に評定(ひょうじょう)して、賞罰法令悉く公家一統の政(まつりごと)に出でしかば、群俗風に帰すること、霜を披(ひら)いて春の日を照らすが若(ごと)く、中華軌(のり)を懼(おそ)るること、刃を履(ふ)んで雷霆(らいてい)を戴くが若し」(第2分冊、213ページ。元弘3年=1333年、日本全土の朝敵は残る所なく滅亡したので、後醍醐天皇が再び帝位につかれ、正慶という年号は廃帝=光厳天皇のもとで改元されてできた年号であるということで、これをやめて、元の元弘に戻された。その元弘3年の夏の頃、朝廷で一本化された政治が行われ、諸国の民が朝廷の徳風に順うさまは春の日ざしに霜がとけるようであり、京洛の民が法令を恐れ敬い従うさまは、刃を踏んで頭上に雷を戴くようであった)。
 これまでも元弘という年号を使ってきたが、鎌倉幕府によって擁立された光厳天皇は正慶という年号を使っており、その2年であったが、それをやめて元弘に戻した。ここで「先帝重祚」と、後醍醐天皇がいったん退位されて、また帝位に復帰されたという認識を示していることに留意してほしい。それから後醍醐天皇が武家政治だけでなく、摂関政治も、院政も否定されて、天皇親政を目指されたことについて、「公家一統」というあいまいな表現が使われていることにも『太平記』の作者の歴史認識の一端を見ることができる。なお、癸酉は「みずのととり」とも読む。
 しかし、『太平記』の作者が言うように、後醍醐天皇の親政が人々をその徳風に順わせたかをめぐっては、異論があるはずである。実際に、『太平記』はこの後、天皇親政のもとで起きた矛盾や混乱について語っている。

 鎌倉幕府を倒した最大の功労者の1人が護良親王であるが、親王は幕府滅亡後も信貴山に留まって兵を集められていた。6月13日に上洛されるという予定であったが、これといった理由もないままに延引し、さらに軍備を整えられて、合戦の準備をされているという噂が伝わってきて、都にいる武士たちは不安になったのであった。信貴山というのは奈良県生駒郡の信貴山にある朝護孫子寺であり、毘沙門天を本尊とし、「信貴山縁起絵巻」で知られる。以前にも書いたことがあったが、東大寺の大仏にかかわる仕事をしていて、「信貴山縁起絵巻」の中の東大寺の大仏が出てくる場面の写真を借りに、朝護孫子寺に出かけたことがあった。もう50年近く昔の話で、今、朝護孫子寺の「交通案内」を検索してみたのだが、私が出かけたころとはだいぶ様子が変わっているようである。なお、『太平記』第3巻に楠正成が信貴山の毘沙門天の申し子であるという話が出てきており、『太平記』との関係は深い。

 護良親王がただならない動きを見せていることを心配された後醍醐天皇は、側近の右大弁宰相(=参議)坊門清忠を親王のもとに遣わされ、幕府が滅びて、天下が穏やかになった時に、なお兵を集め、合戦の準備をしているのはどういうことか、倒幕のためにいったん還俗したのはやむを得ないことであったが、平和が戻ったのだから、急ぎ僧体に戻って門跡寺の住持を継ぐことを第一とすべきだと伝えさせる。
 坊門清忠は『大鏡』でその人物像を活写された藤原隆家の子孫である。隆家の子孫は、平治の乱の張本人である藤原信頼、その後に源頼朝の助命嘆願をした池禪尼など、歴史上のさまざまな場面で意外と重要な役割を果たしてきた人物を出したが、清忠はその最後に位置する人物ではないかと思う。この後も、清忠の登場する場面はあるので、ご注目のほどをお願いする。これも既に書いたけれども、九州の菊池氏は隆家の子孫を自称しているが、真偽のほどは定かではない。太宰権帥として刀伊の入寇を防いだ隆家は公家社会では不遇であったが、武士のあいだでは人気が高く、その子孫を名乗るものが少なくなかったのである。
 後醍醐天皇のお言葉を清忠がそのとおりに伝えていたかどうかは、今となってはわからないが、どこか冷たいものを感じさせられるのは私だけのことだろうか。少なくとも、親王が倒幕に大きな貢献をされたことは確かであり、そのことに対する称賛、あるいは慰労の言葉があってもよいと思うのである。

 清忠に対して、親王は言葉を選んで、かなり長い回答を述べられる。かいつまんで言うと、天皇が京都に戻られ、親政を開始される中で、足利高氏が不穏な動きを見せている。自分が兵を集めているのはそれに備えているのであって、他に何かくわだてているわけではない。皇族で出家した後に、また還俗した例は過去にいくらでもあって、自分も将軍としてようやく回復された平和を維持することに貢献したい。

 清忠が天皇に復命すると、天皇は高氏が不穏な動きをしているという発言は信じがたい。親王が将軍の位を望むというのも自分の政治方針に照らして好ましいことではないが、まずやむを得ないだろうと仰せられて、親王を征夷将軍に任じるとの宣旨を下された。

 後醍醐天皇は聡明かつ学識の深い方であったと思われるが、その分、自信が強くて、他人の意見をいれるということが少なかったのではないか。護良親王と父子でじっくり話し合う機会があれば、その後の事態も変わっていたのではないかと思われる。多くの子どもを儲けられた後醍醐天皇であるが、それぞれのお子様方の人となりをしっかりと把握され、それぞれの個性を生かした配材をする必要があったのではないかと、惜しまれる。
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