『太平記』(98)

4月11日(月)晴れたり曇ったり

 元弘3年(1333年)6月、鎌倉幕府滅亡の報せを受けて、幕府によって隠岐に配流され、その後脱出して伯耆の船上山で勤王の兵を募っていた後醍醐天皇は京都に戻られた。
 一方、九州では3月13日、九州探題北条英時を攻めた菊池入道が戦死したが、その折に、菊池を裏切った少弐と大友は、六波羅探題滅亡の報せを受けて、5月25日、九州探題を攻め滅ぼした。長門探題北条時直は、降伏して命を許されたが、間もなく病死した。北陸では、5月12日、越前牛ヶ原の地頭淡河(あいかわ)時治が、平泉寺の衆徒に攻められて、妻子ともに自害した。17日、越中守護名越時有の一族が、宮方に攻められて自害し、妻子らは海に身を投げた。

 京都の町は平穏さを取り戻したが、楠正成の立て籠もっていた千剣破城のある、大阪府と奈良県の境に位置する金剛山を囲んでいた幕府軍が、奈良にとどまって、京都に攻め寄せようとしているとの噂があったので、宮方では六波羅攻めに貢献した中院中将定平を大将として、5万余騎を京都から奈良へと向かわせ、楠正成に畿内の兵2万余騎を率いて河内から出撃させた。

 奈良に立てこもっていた北条の残党は、そのかなりの部分が既に各地に逃げ散っていたとはいうものの、まだ残っているものは5万余騎を数え、再び激しい戦闘が展開されるのではないかと思われたが、奈良の軍勢の戦闘意欲は既に衰えていた。太平記の作者は「日来(ひごろ)の義勢(ぎせい)尽き果てて、いつしか小水の沫(あわ)に吻(いき)づく魚の体になつて」(201ページ、これまでの見せかけの勢いは尽き果てて、いつの間にか小さな水たまりであえぐ魚のような様子になって)と戦闘に備えるわけでもなく、日々を送る彼らの様子を描写する。
 南都(奈良)を固める第一の城門である般若寺を守っていた宇都宮公綱と、その率いる紀氏・清原氏の2つの党の武士団の700余騎が綸旨を給わって上洛する。宮方の切り崩し工作により、奈良にいた武士たちは次々に降伏して、北条氏の一族と代々その恩顧を受けてきた譜代の家臣たちを除いて、残るものはいないという状態になった。

 こうなったら命を惜しまずに最後の戦いを挑み、その武勇のほどを後世に知らしめるべきところであるが、前世の業のゆえの現世に対する執着の情けなさを見せつけたのは、北条一門の主な武士たち、長崎円喜の息子の四郎左衛門高貞、これまでもしばしば登場してきた二階堂道蘊らが般若寺で出家して、律宗の僧となり、その姿で宮方に降伏したことである。

 宮方の大将である定平は彼らを迎えると、両手を後ろ手にして厳重に縛り上げ、伝馬(宿駅の馬)の鞍の中央に俯せに縛り付けて、京都に連れ戻った。平治の乱の後には源義朝の長男である悪源太義平が平家に捕らわれて首を刎ねられ、治承寿永の合戦の後には平家の棟梁であった平宗盛が源氏に捕らわれて京の大通りを引き回された。これは敵の策略に引っかかったり、自害する暇がなかったために受けた恥辱であったが、それでも源平の子孫の人々は後々までもこの事を忘れなかった。ところが、今回の北条一門とその譜代の家臣たちの場合は、策略に陥れられたわけでもないし、自害する余裕は十分にあったはずなのに、最後の戦いを挑まずに降伏してしまったのは武士として何とも恥ずべきことであった。

 囚人たちが京都に着くと、彼らが来ていた僧侶としての黒衣を脱がせ、法名を元に戻して、1人ずつ大名のもとに預けた。出家したことを認めずに、あくまで朝敵として処分しようというのである。こうして処刑を待つうちに、鎌倉に残してきた妻子の噂が彼らの耳に入り、いよいよなさけない気持ちが増すのであった。

 7月9日に、阿曽時治ら15人の武士たちが阿弥陀峯で斬首された。阿弥陀峯は京都の東山の1つで、古くは鳥辺山といって葬地であった。今は豊国廟がある。本格的な政治を行う前に刑罰を行うのは仁政とは言えないという後醍醐天皇のお考えから、処刑は内密に行われ、首をさらして市中を引き回すということはせずに、それぞれを適当な寺に送りつけて、彼らの後世菩提を弔わせたのであった。
 二階堂道蘊は幕府で重要な地位にあった武士であるが、かねてから賢才の評判が高く、新政権でも用いるべきであるとして、その所領を安堵されていたが、陰謀に加担したとの嫌疑を受けて、やはり処刑されたのであった。

 北条一門の佐介宣俊は、5月初めに宮方に降参していたが、再度捕えられて斬られ、鎌倉の妻も自害した。

 こうして100年以上にわたって天下にその威勢をふるってきた北条一門はあっけなく滅びたのであった。『太平記』の作者は北条氏の失政がその滅亡を招いたとして、「驕れるものは失し、倹なるものは存す」(209ページ、驕れるものは滅び、質実なものは長らえる)という道理がこれまでの経緯の中で貫かれていると主張する。道理に基づいた政治が「太平」をもたらすというのである。

 以上で『太平記』第11巻が終わる。11巻は鎌倉の陥落を描いた10巻と、建武新政の開始とその混乱を描く12巻の間をつないでいるが、特に後半は京都と鎌倉以外の北条一門の滅亡について語っているのだが、詳しすぎるように思われる。逆に、そういうくどいほどいろいろなことを書いているところに、『太平記』の特色があるとも考えられるのである。また、あるべき政治の姿から、歴史的な経緯を論評する姿勢も『太平記』の特色と言えよう。
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