遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(7)

4月10日(日)晴れたり曇ったり

 「六国史」とは奈良時代から平安時代にかけて、国家の事業としてまとめられた日本の歴史書:『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の総称である。ここで取り上げる遠藤さんの書物は、この6編の歴史書の概要を辿り、「六国史」の全体像を明らかにしようとするもので、これまでの6回では『日本書紀』にかかわる部分を論評してきたが、今回から、『続日本紀』について論じた部分を取り上げることにする。

 「六国史」の第2である『続日本紀』は文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)までの95年間を40巻にまとめた歴史書である。この書物の中には平城京に都が置かれていた710年から784年までの歴史が含まれており、奈良時代の歴史を知るための基本的な史料として研究が積み重ねられてきた。この時期、大宝元年(701年)に制定された(遠藤さんは「施行」としているが、この律令が全国に知らされたのは翌年のことなので、「施行」は702年と考えるほうが理に適っていると思う)「大宝律令」によって国家の体制が本格的に確立された。「また『続日本紀』は『日本書紀』とは違って紀年の延長や神話の巻がない。政府の公文書を材料にして事実を書いているので、史料の性格を把握しやすい」(72ページ)という。
 しかも律令の不備を補うために、臨時に出された詔勅などの格(きゃく)は『光仁格』『貞観格』『延喜格』として集成され、さらに平安時代後期になってから『類聚三大格』として再分類された。したがって、『続日本紀』の記事と、『類聚三大格』の記事とを対照できる事例が少なくない。対照・検討した結果として『続日本紀』が伝える情報がこの時代について他の史料よりも多くを伝え、またその信頼性も高いことが結論できる。さらに、考古学的な発掘によって発見された木簡や、正倉院に長く伝えられてきた文書と云う奈良時代についての第一次資料が豊富に存在し、それらと対照して研究を進めることもできる。
 「『続日本紀』を基本に複数の史料を駆使すると、場合によっては日時や個人の動向といったかなり細かな部分まで歴史を再現することが可能になる。奈良時代史研究の強みである」(77ページ)。『続日本紀』(その後の4編の歴史書)はその時代に起きた出来事の中からさまざまな活動を要約し、限られた字数に凝縮している。それを他の史料と付き合わせて我々の知ることのできる歴史の世界をさらに豊かにすることができると著者は述べている。

 このように史料的な価値の高い『続日本紀』であるが、その成立事情は複雑であると遠藤さんは言う。『続日本紀』の編纂を命じたのは桓武天皇であるが、その治世の前半は『続日本紀』、後半は『日本後紀』に二分されて記載されている。「六国史は国家の正史であると同時に天皇の年代記でもある。記事は天皇の治世ごとにまとまり、全体で編年の史書となる。したがって天皇紀がふたつの史書に分かれていることは、六国史の基本性格からみて異例である」(84ページ)という。そしてその原因を編纂を命じた桓武天皇の歴史(あるいは歴史的評価と言った方がいいかもしれない)へのこだわりに求めている。

 「『続日本紀』は桓武天皇に提出されたときの上表(臣下が天皇に奉った文書)が残るので、どのような過程でまとめられたかがわかっている。ただし上表はふたつ、延暦13年(794)2月と延暦16年(797)8月のものがある。
 これに対応して、『続日本紀』40巻はふたつの部分からできている。

 前半20巻 文武天皇元年(697)から天平宝字2年(758)7月まで
 後半20巻 天平宝字2年(758)8月から延暦10年(791)まで

 前半は62年間、後半は34年間を扱う。同じ20巻の分量で収録した年数の違いを比較するだけでも、記事の密度に違いがあるであろうことは予測がつく」(84-85ページ)。

 著者によれば実は後半部分のほうが先に完成されて、延暦13年に提出された。それはこの時代の歴史をまとめたいという桓武天皇の意思を反映するものであったという。そして、『日本書紀』との空白を埋める前半部分が付け加えられて、『続日本紀』が完成した。前半部分についてはもともと奈良時代、藤原仲麻呂の絶頂期に編纂された30巻からなる「曹案」が存在し、それが転変を経て桓武天皇の時代に書きなおされ、20巻に圧縮されて、後半部分とともに『続日本紀』を構成することになったという。しかし延暦13年に提出された後半部分は14巻であった。この14巻に桓武天皇の治世時代の歴史をまとめた6巻を足して20巻とすることがあらかじめ構想されていたと著者は推測している。

 このように『続日本紀』がふたつの成り立ちを持つことによって、神亀6年(729)の長屋王の変や、桓武天皇の権力の確立の過程で皇位継承をめぐる戦いに敗れて除かれ(死後、祟り神として畏れられることになっ)た同母弟の早良(さわら)親王をめぐる記述に微妙な影響が出ているという。晩年に親王の怨霊に悩まされた(自分自身の良心の呵責に苦しんだというのが真相ではないか)天皇は親王に対する態度を表向きあらためる。「現状の『続日本紀』では、早良親王が皇太子を廃されたことはわかるが、なぜ廃されたのか、いつ死去したのかがわからない。記録としては欠陥のある歴史書である。それでも、天皇によって歴史評価が変わったのだから、歴史書そのものも変わったのだ」(100ページ)と著者は論じている。

 20代のころに東大寺にかかわる仕事をしたので、奈良にはよく出かけたし、奈良時代については人並み以上の知識は持っているつもりだし、奈良という町も好きなのだが、奈良時代という時代はあまり好きになれない。都ではなくなって、のんびりした門前町になってしまった奈良のほうが好きだというと、怒られるかもしれないが、それが正直なところである。遠藤さんは『続日本紀』が奈良時代研究の入り口の役割をはたす優れた歴史書だといい、またそれが奈良から京都に都を移した桓武天皇の意思を反映して編纂された歴史書であるとも論じている。その意見について特に異論はないが、『続日本紀』を読んでみようという気にはならないというのが正直なところである(と言いながら、本屋で講談社学術文庫に入っている『続日本紀』の口語訳を部分的に立ち読みしてきたことも付け加えておこう)。 
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