『太平記』(97)

4月3日(日)朝のうち雨、その後、曇り

 元弘3年(1333年)5月12日に、六波羅の両探題滅亡の報せを受けた伯耆の船上山の後醍醐天皇は、23日に上洛の途につき、30日に、兵庫の福厳寺で鎌倉幕府滅亡の報せを受け、6月5日に京都に到着、6日に二条内裏に入られた。
 九州ではこの年の3月13日に、後醍醐天皇と連絡を取っていた肥後の豪族菊池入道寂阿(武時)が九州探題北条(赤橋)英時から宮方内通の疑いをかけられ、こうなったら仕方がないと、同じように宮方に内通していた少弐入道妙恵(貞経)、大友入道愚鑑(貞宗)とともに英時を攻撃しようとしたが、両者ともに応じなかったばかりか、少弐は菊池の使者を斬ってその首を英時のもとに届けた。菊池は怒って、わずか150騎で九州探題の館を強襲した。一時は危地に陥った英時であったが、少弐、大友が加勢に駆けつけたために形勢は逆転し、菊池入道は嫡子武重を故郷に帰らせたうえで、最後まで敵と切り結び、全滅するまで戦った。

 少弐と大友の今回の振舞は人の道に外れたものだと世間から悪くいわれるなかで、それらの悪口が聞こえないようなふりをしながら、両者は天下の形勢を窺っていたが、両六波羅滅亡、千剣破を包囲していた大軍も奈良に撤退したという知らせを聞いて、少弐入道は慌てふためいた。このように事態が宮方に有利に展開してきた以上、九州探題を討ち取って、これまでの行為の補いをつけようと思ったので、まず菊池と大友のもとに内々に使者を遣わして相談を持ち掛けたところ、菊池は前回の例があるので、相談に乗ろうとはせず、大友は臑に傷もつ身であるので、こうすれば助かるかと思って、堅く承知したのであった。

 いつ攻撃しようかと時日を選んでいるところに、英時は、少弐が陰謀をくわだてているという噂を聞いて、それが本当かどうか確かめることを部下の長岡六郎に命じた。長岡は少弐のもとに向かい、会って話がしたいと申し入れると、今、病気を患っているといって、相手になろうとしない。長岡は、仕方がなく少弐の息子である新少弐(頼尚)のところに出かけて、会いたいと申し入れ、さりげなく、屋形のあちこちの様子を窺うと、これから戦闘の場に赴く様子で、楯を作ったり、鏃を研いだりしている最中である。また主殿から離れたところを警備している侍の近くには、蝉本(せみもと)といって旗竿の先端、蝉(旗を巻き上げる小さな滑車)のついているところを白くした青竹の旗竿がたててあった。長岡は、少弐が船上山から官軍の旗である錦の旗を頂いたという噂を聞いたが、ほんとうのことであったかと思い、直接、対面した暁には刺し違えてあの世への道連れにしようと心の中で誓う。
 そうとも知らぬ様子で、新少弐は長岡の前に現れる。長岡は席に着くや否や、けしからん謀叛人どもの企てだと叫んで、腰の刀を抜き、新少弐にとびかかる。新少弐も機敏な武士であったので、身近にあった将棋の番をとって、長岡がつく刀を防ぎ、長岡にむんずと組みついて、上になったり下になったりの格闘を展開する。そうこうするうちに少弐の家来たちが大勢やってきて、新少弐を組み伏せている長岡めがけて切りつけ、押さえつけられていた新少弐を助けたので、長岡はその意図を達することができずに、命を落としたのであった。

 この一件で少弐筑後入道は、自分たちの倒幕の企てが九州探題に知られていることを悟り、こうなった以上は仕方がないと、大友入道とともに、7,000余騎を率いて、5月25日の正午ごろに、英時の館に押し寄せた。世の中が乱れてくると、義を重んじるものは少なく、利に走るものは多いのが習いなので、これまでは探題の威令に従っていた九州の武士たちは、これまでの恩を忘れて逃げ出したり、名誉を惜しむことなく裏切ったりしたので、わずかな時間のうちに英時は破れて、忽ちに自害をしたので、一族郎従340人が、続いて腹を切ったことであった。
 
 少し前には九州探題に従って菊池を討った少弐、大友が、今度は九州探題に反旗を翻して、英時を打ち、滅ぼしたのである。『太平記』の作者は「行路の難なること、山にしも在らず、水にしも在らず。ただ人の情の反覆の間に在り」(188ページ、行く路の険しさは、山にあるのでも水辺にあるのでもない。ひとえに人情の移ろいやすい間を行くことにある)という白居易の詩を引き合いに出して、少弐、菊池の変わり身の早さにあきれた様子を見せている。

 長門探題北条時直は、都に向かおうとして水軍を組織したが、六波羅が滅びたという知らせを受け、九州探題に合流しようとしたが、こちらも滅亡したことを知り、少弐、大友の軍に降伏して命を許されたが、間もなく病死した。
 北陸では、5月12日、越前牛ヶ原の地頭淡河時治が、平泉寺の衆徒に攻められて、妻子ともに自害した。17日、越中守護名越時有の一族が、宮方に攻められて自害し、妻子らは海に身を投げた。鎌倉と京都以外でも北条一族は宮方の武士たちの攻撃を受けて滅びていったのである。

 北条時直、淡河時治、名越時有の最期について、『太平記』の作者は詳しく記しているが、それをそのまま紹介していくのも面倒であり、ここでは簡単に概要だけを書き記すことにした。ただ、全国的な動乱の様子を逐一書き留めようとしている作者の態度には頭が下がる。そのことによって戦乱の世に生きることの厳しさが強調され、「太平」の世への渇仰がより強く表現されているように思える。
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