遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』」(6)

4月2日(土)曇り

 前回は、『日本書紀』の壬申の乱についての記述が、各氏族から提出されたそれぞれの家の資料を編纂したものであり、確かに勝者である大海人皇子側に有利な内容ではあるが、一定の客観性も備えているはずであるという著者の主張を紹介した。それでは、『日本書紀』は全体としてはどのような資料をもとにして編纂されているのであろうか。

 『日本書紀』の完成については『続日本紀』に記載されているが、そこでは『日本紀』と記されている。正式な書名が『日本書紀』か『日本紀』かをめぐっては古くから議論が続けられてきたが、もともと両方の呼び方があったのではないかと著者は論じる。
 日本の歴史を書物にまとめようという試みは推古天皇28年(620)年に聖徳太子・蘇我馬子らが中心となって『国記』『天皇記』の編纂をくわだてたことから始まるという。これらの書物は645年の乙巳の変で蘇我氏の屋敷が焼けたときに、焼失したとされている。この書物では触れられていないが、近年蘇我氏の邸宅跡の発掘作業が進められていて、その一部が発見されるかもしれないと期待されている。この修史事業自体が後世の作り話であるという説もあるので、余計、発掘の進展に興味が寄せられるのである。7世紀の前半には、まだ日本の支配者は「天皇」ではなく、「大王」を名乗っていたので、「天皇記」ではなく、「大王記」であったはずだとする説があることも付け加えておく。

 その後、天武天皇10年(681年)に天武天皇が「帝紀」(天皇の系譜・事績)と「上古の諸事」(古い時代の伝承・説話)を記定するようにと命じられたことが『日本書紀』に記されている。「このようにして始まった歴史の編纂では、政府の公文書はもとより、記録・伝承の類を採録し、古代国家の史書としてまとめられていく」(60ページ)。 

 著者は『日本書紀』の材料を8項目に分けて考えた坂本太郎の整理に立ち返ったうえで、その中の⑥個人の手記・日記と⑦外国文献について、それらをだれが提供したか考察している。
「⑥は『日本書紀』が分註として書名を挙げて引用した記録・文献である。内容を消化して本文にするのではなく、『高麗沙門道顕日本世記』『伊吉連博徳書』『難波吉士男人書』などの書名を明示して原文を引用したのは、その文献を典拠として尊重しているからである。『日本書紀』がまとめられた時点で、一定の評価を得ていた文献と思われる」(同上)と著者は言う。最後のところが、この後の議論と関連して問題になる。そもそも<一定の評価>とはどのような評価なのか?

 『高麗沙門道顕日本世記』は現在まで伝わっていないが、7世紀後半に倭国と朝鮮半島の諸国との外交交渉に参画した高句麗の僧の記した外交史の書物で、唐と連合した新羅に対して厳しい目を向ける独自の視点を持つという。
 『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』も現存しないが、7世紀後半の倭国の対外交渉(特に遣唐使)に参画した渡来系の人々であり、彼らが加わった斉明天皇5年の遣唐使一行は百済への侵攻を決定していた唐の政府によって長安で幽閉され、その後やっと帰国するという経緯があった。

 歴史書にとって年代の表示が大事であることは言うまでもないが、その年代は『日本書紀』の場合、「帝紀」と3つの百済史書によって表示されている。このため、⑦外国文献(『魏志』『晋起居注』『百済記』『百済新撰』『百済本紀』)の存在は重いと著者は言う(既に述べたように、日本側の年代と外国文献の記す年代とが100年ばかりずれている例があるということが念頭にあると思われる)。
 他方で、外国文献の引用の仕方には偏りがある。中国の資料『魏志』と『晋起居注』は「神功皇后紀」にのみ引用されている。これに対して、朝鮮半島との交渉にかかわって百済の3つの歴史書からの引用は、「神功皇后紀」から「欽明紀」まで盛んに行われているという。「『日本書紀』に占める百済記事の比重はきわめて大きい」(65ページ)反面で、「『日本書紀』で記される新羅は、多くの場合非難の対象である」(67ページ)。

 「8世紀に成立した『日本書紀』が、素材史料の持っていた偏りから逃れる歴史叙述は難しかったであろう。百済史書からの引用は、『日本書紀』の歴史観や偏りの一端を示している」(68ページ)と著者はこの間の事情を要約している。そういう事情もあるかもしれえないが、『日本書紀』が編纂された時代における日本と、朝鮮半島を統一した新羅との関係はあまりよくなく、そのことが過去の歴史における新羅の記述にも反映しているという面と、さらにそのことが資料の選択にも反映したという面もあるのではないか。現在の国際関係が過去からの国際関係に影響されたものだという面はあるだろうが、現在の関係が過去の事実の評価に影響を与えるという面もある。そのために資料の選択が偏るということも否定できないのではないだろうか。(この点と関連して、当時の日本の支配層は百済よりであったかもしれないが、日本国内にはかなり強い親新羅勢力がいたはずであることも考えておく必要があるだろう。)

 第1章の終わりに、遠藤さんは『日本書紀』が複数の人物の手を経て編纂されたこと、さまざまな素材を利用し、「先行する歴史記述や古い伝承の価値を認めて」(68ページ)それらを取り込んでいることの意味を考えるべきであり、この特色がその後の歴史書でも踏襲されたという。古い伝承や歌謡を取り込むことが中国の歴史書にはなかったというのは言い過ぎである(『史記』にはある程度取り込まれている)。そうはいっても、伝承や歌謡は人々の精神のありようを知るうえで重要な手掛かりであること、史料の扱い方に見られるように『日本書紀』が多少なりとも複眼的な歴史の見方をしていることにその特色を認めていることには賛意を表したい。
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