伊東光晴『ガルブレイス――アメリカ資本主義との格闘』

3月30日(水)晴れ

 伊東光晴『ガルブレイス――アメリカ資本主義との格闘』(岩波新書)を読み終える。

 ジョン・ケネス・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith, 1908-2006)は20世紀の特に後半を代表するアメリカの経済学者であり、彼の『ゆたかな社会」(The Affluent Society, 1958)はC・W・ミルズの『パワー・エリート』と並んで、20世紀後半を代表するアメリカの社会科学の書物であると著者は評価する。(どちらも、20世紀後半とはいっても、かなり早い時期に書かれた書物であることが問題である。)

 この書物は次のような構成をとっている:
Ⅰ アメリカ 対立する二つの極
 第1章 アメリカ社会と思想
      ――イデオロギー化する「自由」とプラグマティズム哲学
 第2章 アメリカの経済学――輸入経済学対制度学派
Ⅱ ガルブレイスの半生
 第3章 生い立ち、そして経済学者への道
Ⅲ ガルブレイスの経済学
 第4章 経済学への前奏曲『アメリカの資本主義』
      ――ガルブレイス流産業組織論
 第5章 現代資本主義論の提起――歴史に残る名著『ゆたかな社会』
 第6章 成熟した巨大企業体制の解剖――主著『新しい産業国家』
 第7章 公共国家のすすめ『経済学と公共目的』
      ――経済的弱者を守る知識人の戦い
  補章 『大恐慌』――私たちは歴史に学ばなければならない
  終章 「新しい産業国家」から「新しい金融国家」の中で
      ――ガルブレイスの晩年

 著者は2012年に病気に倒れて生死の境をさまよい、その後身体の自由を失った中で、ガルブレイスの死後10年に完成を目指してこの書物を書き上げたという。そのような著者の執念が感じられる一方で、云いたいことをまだ十分に言っていないのではないかと思われる部分もある。経済学には門外漢で、特に後半部分はわかりにくかったのだが、分かったことの中から、特に考えさせられたことを中心にまとめてみたいと思う。

 まず、アメリカ社会の歴史的な特質として、移民の国であるがゆえに、ヨーロッパ(や日本)と違って、共同体の伝統を持たず、そのために、共同体的な伝統との戦いから生まれた「自由」や「平等」についての考え方が広がらず、「自由」が極めて観念的にとらえられる傾向があるという指摘が注目される。アメリカの「小さい政府」や「自由な市場」の擁護者たちは、実はアメリカ経済が大企業によって動かされていて、自由な市場が成立する余地があまりないことを無視している。「自由」がイデオロギー化しているのであるという。
 そのようなアメリカの経済学は、ドイツに留学した学者たちによって発展させられたが、その次の世代であるヴァイナーはイギリスのマーシャルの経済理論を継承し、そのミクロ分析を精緻化し、その後の新古典派経済学の制度化への道を開いた。
 これらの輸入経済学に対して、アメリカ社会の現実を実証的にとらえ、そこから有為な政策を導き出す――ブラグマティックな方法論のもとにアメリカ独自の経済学として発展したのが制度学派(Institutional School)でヴェブレン(1857-1929)によって代表される。ヴェブレンの社会改革の考えは空想に終わったが、彼の後に続いたコモンズ(1862-1945)はルーズベルト大統領によるニューディールを指示し、その政策の立案と実施に積極的に参画した。しかし、政府の経済への介入を嫌う保守層の抵抗を受ける。この保守層の抵抗に批判を加えることになるのがガルブレイスであり、その彼を育てたのは1930年代のハーバード大学の大学院における経済学研究であったという。

 ガルブレイスはカナダのオンタリオ州の小さな村で、スコットランドからの移民の家庭に生まれた。彼の家庭は比較的大規模で裕福な農家であったが、その労働は厳しく、その一方で村にはスコットランドから受け継がれた助け合いの精神が生きていたという。彼はオンタリオ農業カレッジに進学し、家業を継ぐべく畜産を専攻したが、その後関心が農業経済に移り、カリフォルニア大学(バークレー校)の研究生に応募して採用され、カリフォルニアに移ることになる。バークレーでガルブレイスは経済学を基礎から学び、農務省の部長からバークレーに移っていたトーリー(後にニューディールにおける農業政策の推進者の1人となる)の知遇を得る。この時代の彼の友人の1人であるロバート・メリマンはヘミングウェーの小説『誰がために鐘はなる』の主人公ロバート・ジョーダンのモデルと言われる。メリマンを含む友人たちとの自由な討論の中で、ガルブレイスはその思想を形成していった。
 彼の思想形成に大きな影響を与えたのは、当時学生の間で広く読まれていたヴェブレンの書物であった。社会の現実を直観的に見抜く手法、社会に対する批判的な精神をガルブレイスはヴェブレンから学んだが、ヴェブレンとは違って彼は建設的な方向を目指した。カリフォルニアの農業を改善し、農民たちの困窮を少しでも和らげようと考えたのであった。カリフォルニアの農民たちの役に立つ知識や技術の普及の努力から、彼は農学部の分校の講師となり、さらにその過程で書かれた論文により博士の学位を取得、1934年にハーバード大学の講師に招かれる(トーリーが推薦した)。

 彼が赴任したハーバードでは、それまでの旧体制がこの時期に急激に変りだしていた。多くの教授がニューディールには反対している中で、ガルブレイスの指導教授であった農業経済担当のブラックはニューディール支持派であり、彼にプラグマティックな研究の方法について具体的に教えるとともに、農業経済以外の領域へと目を向けさせた。また、ブラックに紹介された実業家のデニソンと議論を繰り返すうちに、彼はケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)を手にする。当時、ケインズの著書はアメリカでも広く読まれ、ハーバードの大学院生たちの中にはケインズ派に改宗する者が多かったが、教授たちは否定的で、考えを変える者はいなかったという。

 ガルブレイスはケインズに直接師事しようと、ロックフェラー財団から奨学金を得て、ケンブリッジ大学にわたる。残念ながらケインズ自身は病床にあって、会うことはできなかったが、ケインズ・インナー・サークルと呼ばれるケインズに身近な経済学者たちとの交流から多くのことを学ぶ。その一方、ケインズと対立していたLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)のロビンズやハイエクのような保守派の経済学者のゼミナールにも出席している。
 帰国後、ハーバードにおける人事の混乱から、彼はこの大学を去らなければならず、プリンストンを経て、ワシントンで第二次世界大戦下の経済政策にかかわり、実業界との衝突に疲れはてて、1943年に雑誌『フォーチュン』に勤めることになる。ハーバード時代の恩師であるブラックは彼をハーバードに呼び戻すことを提案し、ケインズ主義者である彼の採用には抵抗があったが、1949年にハーバード大学の教授となる。

 ガルブレイスの半生はかなり波乱に富んでおり、興味深く、予定していたよりも多くのことを書いてしまったので、今回はここでやめておくことにする。もちろん、大陸からアメリカへと渡ったシュンペーターや、ブルームズベリー・グループの一員であったケインズの正体もそれぞれ波乱に富んでいるのだが、著者も指摘しているように、エリート教育の伝統の中で勉学を続けたシュンペーターやケインズと、農村の現実と向かい合いながら、実学とアカデミズムの二本立ての学問的な経験を積み重ねたガルブレイスの違いは大きそうである。それにしても、ガルブレイスの経済学に影響を与えたといわれるヴェブレンとケインズは、相当違う理論を展開しているのではないか、それが彼の中でどのようにまとめ上げられているのかは興味ある問題で、また機会を見て詳しく掘り下げることにしたい。 
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