『太平記』(96)

3月27日(日)晴れ

 元弘3年(正慶2年、1333年)5月7日、足利高氏、千種忠顕、赤松円心らの兵が鎌倉幕府の京都における拠点であった六波羅を攻め落とし、六波羅の2人の探題は都を落ちて、鎌倉で再起を図ろうと、光厳天皇、2人の上皇、東宮を伴って東山道を進むが、南探題の北条時益は早々に、流れ矢にあたって命を落とし、残る北探題北条仲時らも5月9日、番場の峠を越えることができず、432人が自害する。これとほぼ時を同じくして、5月8日に上野の武将である新田義貞が生品明神で討伐の兵を挙げると、見る見るうちに幕府の政治に不満を持つ関東の武士たちが集まり、倒幕の兵は勢いを増して、幕府が派遣した追討軍を撃破し、5月18日には鎌倉を三方から攻撃する。そして、21日には義貞の軍は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入り、22日には北条氏の得宗である北条高時をはじめとする873人の武士たちが、自害して、鎌倉幕府は滅びる。
 5月12日に、六波羅探題滅亡の報せを受けた船上山の後醍醐天皇は、23日に上洛の途につき、播磨の書写山円教寺、法華山一乗寺などを経て、30日、兵庫の福厳寺で新田義貞が送った使者から鎌倉幕府滅亡の報せを受けた。赤松一族や楠正成らに警護された天皇の一行は、6月5日に東寺、6日に二条内裏に入り、その日、足利高氏・直義兄弟はそれぞれ治部卿と左馬頭に任じられた。
 九州では少弐貞経、大友貞宗、菊池武時らがまだ後醍醐天皇が船上山に滞在されていたころから連絡を取って、綸旨と錦の御旗を受け取ってはいたが、行動を起こさずにいたところ、彼らの内通が九州探題の北条英時の知る所となった。英時の呼び出しを受けた菊池武時は、ここまで事態が進めば、九州探題と一戦を構えるだけだと、少弐、大友にも使者を派遣して、3人で英時を攻めようとする。

 大友は、天下の形勢がどうなるかわからないというので、はっきりした返事をしようとはしない。少弐はというと、六波羅での攻防戦が幕府に有利に展開しているという情報を得ていたから、宮方に心を寄せていたという罪を軽くしようと計算して、菊池との約束を破り、菊池のもとから遣わされてきた八幡弥四郎宗安を討ち果たし、その首を探題のもとに差し出した。菊池入道(武時は)大いに怒って、「日本一の不覚人どもを憑んで、この一大事を思ひ立ちけるこそ落ち度なれ。よしよし、その人々の与力せぬ軍はせられぬか」とて、3月13日の卯の刻に、わづかに二百五十騎にて、探題の館へぞ押し寄せける」(第2分冊、182ページ、「日本一の卑怯者たちを頼りにして、この一大事を思い立ったのが間違いであった。ままよ、少弐、大友が味方しなくても戦ができないわけではない」と、3月13日の午前6時ごろに、わずかに150余騎で、探題の館に押し寄せた)。

 菊池入道(英時)が、櫛田宮(福岡市博多区上川端町の櫛田神社)の前を通り過ぎようとした時、神が合戦の凶事を示されたのか、または騎馬のまま通ったことを咎められたのか、菊池が乗った馬の足が急にすくんで、一歩も前に進まなくなってしまった。菊池入道は大いに怒って、「どのような神でおわされようと、寂阿(=菊池入道、武時)が戦場に向かおうとする途中で、騎馬のまま通ることをおとがめになるご様子である。そのようになされるのならば、矢を一つ射てみましょう。受けてごらんなさい」と箙の上側に刺す儀式用の鏑矢を抜き出して、その2本の矢を2本とも、神殿の扉めがけて射たのであった。矢を射ると同時に、馬のすくみが直ったので、「それ見たことか」と笑いながら通り抜ける。後で社壇を見ると、2丈(6メートル)余りの大蛇が、菊池の鏑矢に当たって死んでいたのが不思議であった。(櫛田神社は博多の総鎮守として市民の信仰を集めてきた神社であるが、その由来や祭神については諸説あるようである。また、ここで馬が立ちすくんだこと、武時の射た矢で馬の足がもとに戻ったこと、それが神意とどのように関係するのか、大蛇と神はどのような関係にあるのか・・・・などすべて謎である。)

 このように幕府に敵意を持つ武将が攻めてくることは、すでに探題も察知していたので、多くの兵を城門から外に出して戦わせたのであるが、菊池は小勢ではあったが、皆、決死の覚悟で攻め寄せてきたので、守っている探題方の兵力の消耗ははげしく、とうとう九州探題方の兵たちは本丸に立てこもらざるを得なくなった。菊池の勢はいよいよ勢いに乗って、塀を乗り越え、木戸を切り破って、隙間もなく攻め入ってきたので、探題であった英時はもはやこれまでと覚悟を決めて、自害しようとしたのであった。
 ところが、この時に少弐、大友が6,000余騎を率いて、菊池の軍の背後をつこうと迫ってきた。

 菊池入道はこれを見て、嫡子である肥後守武重を呼んでいうことには、「自分は今、少弐、大友に出し抜かれて、戦死しようとしているが、道義に適うことをしているので、命を落とすことを後悔はしない。したがって、寂阿は、この城の攻防戦で戦死する覚悟である。おまえは急いで故郷の館に帰って、城の守りを固め、さらに兵を集めて、自分の仇を討て」と申し渡し、若い郎等たち50騎を選び出して、武重につけて、肥後国に帰らせようとした。故郷に残してきた妻子たちが、出陣したのが最後の別れになるとも知らないで、帰宅するのを今か今かと待っているであろうと、あわれに思われたので、一首の歌を袖の笠符に書きつけて、故郷へと送った。
  古里に今夜(こよい)ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん
(第2分冊、184ページ、私が今夜かぎりの命とも知らずに、ふるさとの妻は私を待っているだろう。)

 武重は40歳を越えたばかりの父親が戦死の覚悟をして大敵に立ち向かおうとしているのを見て、自分も一緒に戦死したいと必死に申し出るのだが、おまえを天下のために生き残らせるのだと父親が何度も厳命するので、やむなくこれを最後と父と別れて、泣く泣く肥後の国へと戻った。その心中があわれに思われる。

 その後、菊池入道はもう1人の子どもである肥後三郎とともに、残った100余騎の兵を前後に建てて、背後から迫る少弐・大友の軍勢には目をかけず、英時の館をひたすら目指して、一歩も引かず、九州探題の軍勢の1人1人と刺し違えながら、1人残らず討ち死にした。

 武時がふるさとの妻に宛てて書き残した歌は、地方の武士らしい、技巧を凝らさずに率直に心情を詠んだ歌であることが、かえって心を打つ。この箇所では、倒幕の意思をはっきりさせた菊池一族と、幕府に対して不満を抱きながらも、その力がまだまだ強大であることからまだ帰趨を決めかねている少弐・大友両氏の動きとが対比される。『太平記』の作者の記すところを信じれば、大義を重んじ、歴史の流れは大義の実現に向かっていると信じる菊池と、より現実的な少弐・大友の考え方の違いである。これら2つの勢力は結局、呉越同舟して後醍醐天皇に味方することになるが、その後、またそれぞれの利害関係の対立が明らかになる。
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