遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(5)

3月27日(土)曇り、時々晴れ

 『日本書紀』が歴史的な事実をどのように記述し・評価しているかを考える際に、きわめて重要になってくるのが、大友皇子と大海人皇子が皇位を争った672年の壬申の乱であると著者は論じる。『日本書紀』全30巻のうち、最初の2巻が神代にあてられ、その後の28巻が歴代の天皇(と神功皇后)の治政を記しているが、顕宗・仁賢天皇が1巻にまとめられ、天武天皇が2巻に分けられているほかは、1人が1巻という構成である。その2巻に分けられた天武天皇紀の上巻が壬申の乱を扱っているため、「壬申紀」とも呼ばれてきた。

 著者は『日本書紀』にはとかくの批判がある中で、「撰者自身が判断を下せないことについて『後に考える者が明らかにするだろう』(継体天皇25年12月条の分註)と、後代に判断を委ねる謙虚さも持っている」(46ページ)として、その記述が決して一方的に偏ったものではないことを示そうとしている。とはいうものの、一方に偏った歴史を記さない努力の中で、「公的な立場に縛られている」(47ページ)のが壬申の乱をめぐる部分であると論じている。

 『日本書紀』がまとめられた奈良時代の天皇は天武天皇(大海人皇子)の子孫であり、人心の乱は奈良時代の人々にとっていわば「現代」の出発点となる出来事であった。そのことが天武天皇の治政をいつから数えるかという問題にあらわれているという。「672年(壬申)の6月、大海人皇子は吉野で決起し、近江大津宮の大友皇子との戦端を開いた。およそ1ヵ月にわたる戦闘は大海人皇子の勝利に帰し、敗北した大友皇子は自害する。7月、飛鳥に入った大海人皇子は、翌673年2月に即位して天武天皇となった。『日本書紀』は即位からは巻を改め、巻第29天武紀下となる。ただ『日本書紀』は即位に先立ち、672年壬申を天武天皇元年として数え始めるので、巻第29は天武天皇2年で始まる。『日本書紀』では、皇位は天智天皇から弟の天武天皇へと継承されたとの立場を堅持し、大友皇子の即位は認めていない。また皇位の空白も是としないために、671年12月に天智天皇が崩じると、翌年は天武天皇の元年とした」(同上)。

 ところが、『日本書紀』成立以前に記された薬師寺東塔の檫(さつ=仏塔の頂部にある相輪の一部分で、心柱を包む金属製の管)には天武天皇が、病気になった皇后(後の持統天皇)の快癒を祈願するために薬師寺造営を発願された庚辰の年(680)年を天武天皇8年と記している。『日本書紀』では9年としているのである。詳しい議論は省くが、『日本書紀』の「紀年は天武天皇を天智天皇の正統な後継者とする『日本書紀』の立場が表明された原則論なのだ」(50ページ)と論じている。

 壬申紀は養老4年(720年)からさかのぼること50年足らず前の争乱について、各氏族からの報告や従軍した下級官人の記録に基づいてまとめられたものである(考えてみると、私が大学に入学したのが今を去ること51年前で、養老4年から壬申の年を振り返るよりも、もっと時間がたっている)。江戸時代、水戸藩で『大日本史』の編纂に従事していた学者たちは『日本書紀』とは異なる資料も参考にした結果、大友皇子が即位していたという結論を導き出し、その結果として明治時代に、大友皇子(=弘文天皇)は天皇歴代に加えられる。

 ここでも著者の議論は『日本書紀』の内容を重く見る立場を崩していない。『日本書紀』の読者となる人々は、その一方でこの書物の編纂の過程で資料を提供した氏族に属する官人たちであったから、天武天皇を正当とする立場を崩さないにしても、それほど一方的な記述を展開しているわけではなく、あまりに一方的であると、官人たちの承認を得られなかったであろうという。
 天智天皇が亡くなられた後、大友皇子が即位されたかどうかをめぐっては歴史家の間に様々な説があって、遠藤さんが記しているほど単純なものではない。天智天皇の母である斉明天皇が亡くなられた際に、天智天皇はすぐに即位されず、称制(しょうせい=天子に代わって政務をとること)という形で政治をされた。それと同じように、天智天皇が亡くなられた後、大友皇子は称制をされたのだという考えもあるし、天智天皇の皇后が称制されたという説もある。このあたりのことは直木孝次郎『壬申の乱』に詳しく論じられていたと記憶するが、何せ、この本を読んだのが50年以上昔のことなので、記憶が確かではないことを割り引いて読んでほしい。遠藤さんは参考文献に直木の書物を2冊挙げているが、『壬申の乱』には目を通していないようで、このあたりが残念である。ただ、「そもそも即位を認定するという行為は、現在の古代史研究でそれほど意義はないだろう」(53ページ)という意見も述べていることを付け加えておこう。

 『日本書紀』がさまざまな資料を材料にして編纂されていることを指摘したことから、著者は、材料となった資料の問題を次に取り上げることになる。その点の考察については、また次回に譲ることにしたい。
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