遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(3)

3月9日(水)雨が降ったりやんだり

 『日本書紀』の特徴の1つは、雄略天皇の22年(478年)7月に浦島子が蓬莱国に向けて出発したという記述に示される、本来、漠然と雄略天皇の時代の出来事として伝承されていた事柄に対してさえも、具体的な年代を与えるというような年代表示への固執であると著者は指摘する。

 では、このような年代はどのような暦法に基づいて設定されているのだろうか。この点については天文学者である小川清彦(1892-1950)の推定が定説になっているという。「『日本書紀』の暦日は、初代神武天皇から20代安康天皇までは儀鳳暦、21代雄略天皇から41代持統天皇までは元嘉暦によって組まれているのである」(34ページ)。
 元嘉暦は中国・南北朝時代の南朝の宋の天文学者である何承天が作った暦法で、445年から509年まで中国の南朝で用いられた。百済もまたこのこの暦法を使用している。「南朝・百済の文化圏にあった5世紀の倭国も、暦法を使用したのであれば元嘉暦に拠ったはずである」(同上。なお、ここで「暦法を使用したのであれば」と著者が条件をつけていることも注目する必要がある)。
 儀鳳暦は唐の天文学者李淳風が作り、665年から728年にかけて唐で用いられた麟徳暦が、唐の儀鳳年間(676~679)に日本に伝わったためにこの名で呼ばれていると考えられている。
 「元嘉暦は旧く、儀鳳暦は新しい。ところが…『日本書紀』の暦法は逆転している」(36ページ)。この問題について、著者はあまり詳しく論じていないが、公式の歴史書として作成するために、年代の記述が必要だと編纂者たちが考えたものと推測している。『古事記伝』の著者である本居宣長は、『日本書紀』よりも『古事記』のほうが日本人の本来の精神を表す内容をもっていると考えた。彼は、むかしの日本ではもともと暦の使用が一般的でなかったし、そういう時代の出来事に具体的な年代を与えようとした『日本書紀』の態度は不自然だと考えたようである。こういう考えもあることを念頭においてほしい。

 伝承されてきた事柄に、具体的な年紀を与えようとすることから、『日本書紀』の記述には他にも無理が生じている部分がある。古代中国の、辛酉の年には大変革(革命)が起きるという考えを受けて、推古天皇9年(601年)の辛酉の1260年前の紀元前660年正月に神武天皇が即位したと記された(太陰太陽暦の年紀を太陽暦の年紀にあらためて計算すると正月ではなく2月になるというのが「建国記念の日」の根拠になっているのは御承知の通りである)。
 このような紀年操作の結果、伝承されている天皇の数が限られていたので、その治政の年数が延長される結果となったと著者は記す(これは日本だけのことではなく、『旧約聖書』の初めの方の登場人物の寿命が著しく長いのも、同じような理由からである)。「素材
史料を改変しない立場と、史書としてどうしても紀年を設定したい立場のせめぎあいの中で生じた矛盾である」(38ページ)。
 著者は続けて次のように記す:
「延長した紀年は、やがてどこかで実年代に合わせなければならない。幸いなことに5世紀代については、『日本書紀』の記事と全く別系統の史料(5世紀の同時代史料、中国史書、朝鮮史書)とを比べることで、相互の記事を検証することができる」(同上)。
 このような手続きを経てみると、「『日本書紀』の紀年延長が解消され、実年代と合ってくるのは雄略朝の末年、つまり5世紀後半である。歴史資料として『日本書紀』の真価が発揮されるのは、ひとつには巻第14雄略紀以降とみるべきだろう」(40ページ)と著者は結論している。

 昨夜(3月9日の夜)に、この原稿を書いている途中でうとうとして、この調子ではまとめ切れないと思って、翌日に持ち越した次第である。主として『日本書紀』の紀年の問題についての著者の意見を紹介したが、まだまだ『日本書紀』をめぐる論点は残っていて、簡単にはまとめられそうもない。著者は『日本書紀』を日本の古い昔についての優れた歴史書であるというかなり弁護的な立場で、この書物を書いているように受け取られるが、この見解には疑問の余地がかなりあるので、さらに詳しく検討を加えていきたいと思う。 
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