『太平記』(93)

3月4日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府が滅んで後、北条高時の長子邦時は、母方の伯父五大院右衛門の密告により、捕えらえて斬られた。
 これより早く、5月7日に六波羅が陥落し、六波羅探題一行は関東へと向かったが、9日に近江の番場で行く手を阻まれ、北条仲時以下432人が自害した。
 都を制圧した千種忠顕、足利高氏、赤松円心はそれぞれ、伯耆の船上山の後醍醐天皇のもとに早馬を走らせ、京都が宮方の支配下に入ったことを伝えた。

 この知らせを受けて、後醍醐天皇のもとに集まっていた諸卿はただちに都に戻るべきか否かをめぐって議論を重ねた。その中で勘解由(かげゆ)庁(=国司が交代するときの引継ぎの書類を監査する役所)の次官であった藤原光守が次のように発言した。「六波羅の二人の探題が既に都を去り、鎌倉に向かう途中で死亡したとはいっても、楠正成の籠もる千剣破城を包囲している幕府方の武士たちをはじめとして、幕府方の武士は畿内にあふれており、その勢いは京都を呑み込むほどです。また、下々のことわざに、関八州の軍勢だけで、日本中の軍勢に打ち勝つともいわれています。だからこそ、承久の変の際に、幕府の京都守護であった伊賀光季はたやすく討ち取ることができたのですが、関東の軍勢が改めて上洛してくると、官軍は敗北し、天下は久しく武士の権威に従うことになりました。今、戦いの勝敗を計ると、まだ全体を十とすると、そのうちの二か三に相当する勝利を得たにすぎません。『春秋公羊伝』には「君子は刑人に近づかず」という言葉が記されていて、これは罪人には、危害を加えられる恐れがあるから近づかないという意味です。しばらくはこのまま船上山に留まられて、諸国の武士たちに綸旨を下され、東国の形勢を窺われるのがよろしいかと思います」。この意見に、居合わせた諸卿は皆同意したのであった。

 後醍醐天皇は、それでも上洛の機会を決めるのが難しいと思われていらしたので、自ら周易の書物を開かれて、京都にお戻りになるのが吉か凶かを筮竹で占われた。その結果は、軍隊を率いるのに正しく行う。徳のあるものが統率すれば吉で過ちがない。天子の命で、功あるものに国を与え、家を継がせる。徳のない者(小人)は重用してはならないというものであった。このような卦が出た以上、京都に戻ることは疑いなく吉であるとして、5月23日に、伯耆の船上を出発して山陰地方から東へと向かわれたのであった。

 天皇が都に向かわれる行列の様子は通例とは異なり、頭大夫(蔵人所の頭で京職、修理職などの長官=太夫を兼ねていた)一条行房と勘解由次官光守の2人だけは貴族の正装である衣冠を身につけていたが、その他の貴族の面々は鎧兜に身を固めて付き従っていた。その周囲を武士たちが武装して警固している。「前後三十余里」(第2分冊、173ページ)も行列が続いたというのはいくらなんでも大げさであるが、大軍が従ったのは確かであろう。出雲の守護であった塩谷判官(佐々木)高貞が1,000余騎を率いて、先頭に立ち、(島根県出雲市朝山町の武士)朝山太郎が、一行から1日遅れた行程で、500余騎を率いてしんがりを務めた。(鳥取県日野郡日野町金持(かもち)の武士)金持(かなじ)大和守が官軍の旗である錦の旗を掲げて行列の左を歩み、これまで後醍醐帝を支えてきた名和長年が剣を帯する警護役として天皇の右側を歩んだ。堂堂たる行列の様子である。

 考えてみると、1年前の春の末に、天皇が隠岐の国へ流刑になった時に、無念の思いでご覧になったのと同じ風景が、今はお喜びの気持ちに応えるかのように、その眼前に展開している。あたりの風光が天皇のために万歳を唱えているかのように思われ、すべてが明るく、繁栄しているように思われたのであった。

 天皇が自ら筮竹を手にされて、今後の運勢を占われたのは、それだけ上洛の気持ちが強かったのであろうが、身近に占いに通じた臣下がいたはずであるから、その判断にゆだねるほうがよくはなかっただろうか。天皇は聡明で、学識に富まれた方であったので、何でもご自分でやってしまおうという気持ちが強かったのかもしれないが、側近の者の長所を巧みに利用することも必要であったのではないか。その後の「建武の新政」の展開をみると、占いでいわれていることが忠実に守られたとはいいがたいことも念頭においてよいことかもしれない。
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