『太平記』(92)

2月28日(日)晴れ後曇り、比較的温暖

 今回から第11巻に入る。鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏一門は新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め込んだ際に、討ち死にし、あるいは自害をした。元弘3年(1333年)5月22日、敵陣深く入って奮戦を続けていた長崎基資が、得宗・北条高時が最期の地として選んでいた東勝寺に帰参して腹を切ると、続いて北条高時以下873人が自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡したというところで、第10巻は終わっている。なお、吉川英治の『私本太平記』では高時の最期の様子を『太平記』とは全く別の描き方をしているので、それも歴史についての一つの解釈であろうかと思っていることを書き添えておく。

 第11巻は「義貞すでに鎌倉を治(しず)めて、威遠近に(おんきんに)振るひしかば、東八ヶ国の大名、高家、手を束(つか)ね、膝を屈せずといふ者なし」(第2分冊、165ページ、義貞は既に鎌倉を平定し、その威風が至る処に及んでいたので、関東八ヵ国の大領主や名門の武士に、手を合わせ屈服しない者はいなかった)。長年、北条氏の恩顧を受けていた武士たちでさえそのような様子であったので、利害関係だけにつられて北条氏に属していた武士たちになると、彼らのへつらうさまはあさましい限りであった。こういう連中は、出家して世を捨てている北条一門の人々を寺から引きずり出して虐殺し、夫を失ったので、再婚する意思はないとして出家しようとする女性たちをあちこちで探し出して、亡き夫への操を守ろうとする志を無にするようなことをしたのであった。

 ここで、『太平記』の作者は次のような評言を差し挟んでいる:
「悲しいかな、義を専(もっぱ)らにして忽ちに死せる人は、永く修羅の奴となつて、苦しみを多劫の間に受けん事を。痛ましいかな、恥を忍んで苟(いやしく)も生けるものは、立ち処に衰窮の身となつて、笑ひを万人の前に得たる事を」(第2分冊、165-166ページ、忠義を全うして潔く討ち死にした人は、永く修羅道に落ちて、永遠の苦しみを受けることになる。恥をこらえてかりそめにも生きるものは、忽ち落ちぶれ品窮の身となって、万人の前に笑い物となる)。岩波文庫版の脚注によると、修羅は衆生が輪廻する六道の一つで、闘いで死んだ者が赴く怒りと闘争の世界である。多劫はきわめて長い年月である。(厳密に言えば、「永遠の苦しみ」ではなくて、「きわめて長い間の苦しみ」ということになる。仏教の地獄は、キリスト教(カトリック)でいう煉獄に相当するという学者がいるが、ダンテの『神曲』を読んでいても、キリスト教における「時間」が、仏教における「時間」よりもかなり短いことが分かる)。

 さて、そういうみっともない変節をした武士たちの中でも、もっとも目立った例が五大院(ごだい)右衛門宗繁であったという。彼は北条高時が篤い恩顧を与えた武士であっただけでなく、彼の妹は高時の寵愛を受けた側室の新殿(にいどの)であり、高時の子、相模太郎邦時、相模次郎時行は、彼の甥であった(時行については、第10巻で、諏訪盛高に伴われて諏訪に落ち延びて再起の機会を窺うことになったと記されている)。
 高時は、宗繁が新殿の兄であり、自分の息子たちの伯父であることから、彼を深く信頼し、邦時を託して、どんな方便をめぐらしてでも、邦時を守って、再起の機会を窺うようにしてくれと言い渡していた。それで、宗繁は、新田義貞の軍勢に降参して、ひそかに邦時をかくまっていた。
 こうして3日、4日がたって、北条一門が悉く滅びた様子ではあったが、新田(・足利)の軍勢は、まだ生き残ってどこかに隠れている北条一門のものを探し出せば賞を与えるという。こうして見つけ出された北条一門のものはすぐに処刑され、捕えたものは捕えられた北条一門の人々の領地を与えられ、かくまっていた人々はその所領を没収されることが続いていた。

 五大院右衛門はこの有様を見て、いやはや運の尽きた人を助け養おうとして、運よくつなぎとめた命を落とすよりは、邦時の所在を知っていることを新田方に通報して、新田方に異心を抱いているのではないことを明らかにし、所領の一部だけでもいいから、安堵する(所領であると認められる)ほうがよいのではないかと思い、ある夜、この相模太郎に向かって、次のように述べた。
 あなたが、この家にかくまわれていることは、誰も気づいていないと思っておりましたが、どのようにして秘密が露見したのでしょうか。新田義貞の執事(家老)である船田入道が、明日この邸を捜索にやってくるという情報を伝えてきた人がおります。なんとしても、今日の内に居場所を変えられないといけません。夜の闇に紛れて、伊豆山神社の方にお逃げください。宗繁もお供したいとは思いますが、一家そろって逃げるとなると、人目につきやすく、船田入道もさてこそと気づくと思われますので、御供はしないつもりですとまことしやかに言葉を並べたのである。これを聞いた相模太郎は、確かにその通りだと、身の置き所がなくなったことをあらためて実感しながら、5月27日の夜に、ひそかに鎌倉を出発したのである。

 幕府滅亡以前には、天下の主であった相模入道(高時)の長男であるので、ちょっとした物詣や方違え(かたたがえ=外出の方角が悪い時、いったん別の場所に泊まって方角を変えて目的に向かうこと)などにも大勢の家臣たちがつき添って警固したものであるが、時勢が変わったことで、みすぼらしい中間1人に太刀をもたせ、伝馬(公用の旅のために宿駅に常備された馬)も利用せずに、破れた草鞋に、編み笠を着て、どこへともわからずに、泣く泣く伊豆山神社に向かって、足に任せて向かおうとする、その心中を察するとあわれに思われる。

 五大院右衛門はこのようにして相模太郎を騙して出発させた後で、自分の手で彼を討ち取って義貞に差し出したならば、長年の方向の恩を忘れたものとして非難されるであろう、適当な源氏(新田方)の武士に討ち取らせてその褒賞の領地を(源氏の侍と)分け合って、領有したいと思ったので、急いで船田入道のもとに赴き、「相模太郎の行方を詳しく聞き出しました。ほかの兵士たちを交えずに討ち取ることができれば、きっと格別のご褒美をたまわることになるでしょう。このようにお知らせしたのですから、当方の所領を安堵するというご推挙をお願いできればと思います」と言上する。船田入道は心中に、目先のことだけを考えているいやなことをいうやつだなぁとは思ったものの、承知したといって、五大院右衛門とともに先回りをして相模太郎が落ちのびてくるのを待ち受けた。

 相模太郎は、待ち受けているものがいるとも知らずに、5月28日の明け方、なさけない落ちぶれた姿で、相模川を渡ろうと、渡し守を待って、岸の上に立っているのを、五大院右衛門はひそかにあれがその当人ですと教えたので、船田の家来の者が3人で、馬から飛び降りて、逃れる隙間もなく相模太郎を生け捕ってしまった。本来ならば、身分のある囚人なので、乗せるべき張輿すらもなかったので、船の縄で、相模太郎をがんじがらめにしばりつけ、馬に乗せて、中間2人にその馬の口を取らせ、白昼に鎌倉へと護送した。その姿を見聞きして、涙をこぼさない人はいなかった。相模太郎はまだ若く、世の中から糾弾されるような罪状はなかったのだけれども、朝敵の長男だということで、放っておくことはできないとして、直ちに翌日の暁に、ひそかに首を刎ねられた。

 この一部始終を聞いて、五大院右衛門が、我が身可愛さに、旧主の恩を忘れ、その子どもを敵の手に渡したのは義に背く行為であると非難する声が高くなり、それが新田義貞の耳にも達して、五大院も処刑すべしとの決定が内々になされたので、これを伝え聞いた宗繁は、あちこち逃げ隠れしたのであるが、悪いことはできないもので、誰も彼を助けようとしなくなったために、「忽ちに乞食の如くになりはて、道路の衢(ちまた)にて、飢ゑ死にけるとぞ聞こえし」(第2分冊、170ページ)と『太平記』の作者は記している。

 信頼していた伯父に裏切られ、処刑された相模太郎はかわいそうではあるが、宗繁を信頼しきっていた高時の思慮が浅かったことも否定できない。宗繁の行動は非難されるべきであろうが、それに対し、早めに断固たる措置を取らない新田義貞にも問題があるかもしれない。とにかく、いろいろな意味で後味の悪い記事が、鎌倉幕府の滅亡の後に記されていることは注目しておいてよい。 
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