『水鏡』

2月27日(土)晴れ、温暖

 書店の岩波文庫のコーナーを見たら、『水鏡』の増刷版が並んでいたので、「やったぁ!」と小躍りして喜びかけたのだが、落ち着いて考えてみると、<四鏡>でまだ読んでいないのは、『今鏡』であった。『水鏡』は、岩波文庫以外の版で既に読んでいるのだが、改めて読み直してみてもよいかなと思って、文庫本で110ページあるのを一気に読み終えた。昨日の当ブログで遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の正史』を取り上げたので、今日は<四鏡>の内の1冊で、取り上げた時代において《六国史》と重なる部分が多い『水鏡』を取り上げるのも面白いだろう。

 『大鏡』、『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』を<四鏡>という。成立年代からいうと、『大鏡』が院政時代に入った12世紀初め、『今鏡』、『水鏡』が同じく院政時代だが、12世紀後半、『増鏡』は南北朝時代の14世紀後半に成立したと考えられる。『大鏡』が文徳天皇の嘉祥3年(850年)から後一条天皇の万寿2年(1025年)までの歴史を紀伝体で語ったものであるのに対し、『今鏡』は『大鏡』のあとを受けて、万寿2年から高倉天皇の嘉応2年(1170年)までを取り上げ、これまた紀伝体の型式を取っている(そうである――読んだことがないから確かなことは言えない)。『増鏡』は治承4年(1180年)の後鳥羽天皇のご誕生から、後醍醐天皇が隠岐から京都に還幸される元弘3年(1333年)までを扱っている。『大鏡』、『今鏡』と違って、編年体で記されていること、『栄華物語』と同様に各巻に優美な題名が付けられていることも特徴と言える。

 これに対し『水鏡』は「かの嘉祥3年よりさきの事をおろおろ申すべし」(18ページ、(『大鏡』の発端となっている)あの嘉祥3年よりも前のことをおぼつかないなりに語りましょう)と言い、さらに神代のことは省くとして、神武天皇から仁明天皇までの事柄を扱っている。ほかの3つが作者にとってかなり近い時代を取り上げ、多くの史料を活用して書かれているのに対し、作者の時代からかなりの距離のある時代を取り上げているために、史料としての価値が低く、編年体で書かれていることから見ても、作者が内容についての自分なりの意見をもって書いているわけではないことが推測できる。

 <四鏡>はすべて、並外れて年老いた老人(『水鏡』の場合は仙人)が昔の話をするのを、書き手が聞いて書きとどめるという枠物語の型式をとっている。『大鏡』は京都紫野の雲林院の菩提講、『今鏡』、『水鏡』は初瀬(=長谷寺)、『増鏡』は嵯峨の清凉寺が出会いの舞台となっている。それぞれ寺院が絡んでいるのだが、『水鏡』は特に仏教色が強いのも特色と言えよう。特に神武天皇からの歴史を語りだす以前に、仙人が仏典に書かれた時間の枠組みについて語るが、これはほかの3つには見られないものではないかと思う(確認していない)。他にも寺院の成り立ちなどがかなり詳しく記されているのが特徴的である。これらのことと関連して、時間に対してのこだわりがあり、その関心が外国における年代にも向けられている。神武天皇の即位の年について「釈迦牟尼仏涅槃に入り給ひてのち、290年に當り侍りし」(19ページ)とか、懿徳天皇の32年に孔子が没したとか、外国の年代と日本の年代を計算しながら、記述している。

 歴史的な出来事というよりも、説話的な、不思議な出来事の方に作者の関心が向けられているのは、既に書いたように、対象となる時代が作者の時代から離れていることも手伝っているのであろう。浦島太郎の原型である浦嶋子が雄略天皇の22年7月に蓬莱(竜宮ではない!)に出かけたことは、昨日取り上げた遠藤慶太『六国史』31-33ページにも言及されているが、『今鏡』には淳和天皇の天長2年に「浦島の子は帰れりしなり、もたりし玉の箱をあけたりしかば、紫の雲西ざまへまかりて、のち、いとけなかりける形、忽ちに翁となりて、はかばかしく歩みをだにもせぬ程になりにき。雄略天皇の御世にうせて、ことし347年とといひしに帰りたりしなり」(106ページ)と、浦島の帰還まで記されている。淳和天皇の治政は《六国史》中唯一その大部分が散逸してしまった『日本後紀』に記されていたので、浦島の帰還が正史に書きとどめられているかどうかは確認できない。

 このような好奇心が、『水鏡』全編に横溢しているので、読んでみて面白いことは面白いのだが、その好奇心が野次馬的なものになり下がっているように思われる点が多々ある。とくに有名な説話として、藤原仲麻呂(恵美押勝)が孝謙天皇のもとで権勢を誇ったが、道鏡との権力争いに敗れて反乱を起こし、討伐されたという話に関連して、「大臣の女おはしき、色かたちめでたく世にならぶ人なかりき。鑑真和尚の、この人千人の男にあひ給ふ相おはす、とのたまはせしを、ただうちある程の人にもおはせず、一二人程だにもいかでかと思ひしに、父の大臣うちとられし日、御方のいくさ千人悉くに、この人を犯してき。相はおそろしき事にてぞ侍る」(84ページ、大臣には娘がいらっしゃいました。容貌に優れていてくらべられる人はありませんでした。鑑真和尚が「この人は千人の男と結婚される相をもたれています」とおっしゃったのを、ふつうのかたではいらっしゃらない、一人二人というのでもどうだろうかと思っておりましたが、父の大臣が討ち取られた日に、官軍の兵士たち1000人のすべてが、この人を犯しました。相というのはおそろしいものです)というのがある。
 平安時代の初めに最澄と論争した会津の僧徳一は藤原仲麻呂の遺児であったという伝説があり、同じ伝説を書き記すのであれば、こちらを書いたほうが文章の格調が高くなると思うのだが、それは現代人の見方なのであろうか。

 今の若者が歴史に興味を持たないのは、物語としての歴史を教えないからだという人がいるが、物語にもいろいろな種類がある。若者が好奇心をもちそうな物語だけを教える歴史が、はたして歴史学研究の出発点としてふさわしいものか、歴史物語としての<四鏡>を読み返すことで、その効果と問題点の両方があぶりだされるのではないかと思う。
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