ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(24-1)

2月23日(火)曇り後晴れ

 ダンテはウェルギリウスに導かれて、煉獄の第6環道へとたどり着いた。そこでは霊たちが地上で犯した飽食の罪を償っていた。2人には第5環道から、白銀時代のローマの詩人であるスタティウスがついてきていた。彼は罪の償いを終えて、天国に向かおうとしていたのだが、ウェルギリウスへの尊敬の気持ちから、2人とともに煉獄を歩もうとしていた。ダンテは、ここで、若いころに、戯れの詩を作ってお互いをからかいあっていた、旧友のフォレーゼの霊に出会う。彼は死後間もないにもかかわらず、貞潔な妻であるネッラが彼のために祈り続けていたために、天国に間近なところまで死後の歩みを進めていたのである。

話が歩みを、歩みが話を遅らせることは
なく、さながら順風満帆の船のように、
私達は議論しながら力強く進んでいった。
(350ページ) 第6環道にいた霊たちは、彼らの周りを取り巻いていたが、ダンテが生きてこのような場所を歩んでいることに気付き、驚きの目で彼を見ていた。フォレーゼにウェルギリウスについて語っていたダンテはさらに、スタティウスが2人とともに歩んでいることを告げ、さらに、彼らを取り巻く霊たちの中にダンテの知人がいないかを尋ねる。

 修道院に入った後に、兄であるコルソの野望の道具とされて、同じくフィレンツェ黒派の有力者であったロッセリーノと政略結婚させられたフォレーゼの妹のピッカルダが天国にいると知らされる。さらにフォレーゼはこの環道にいる人物たちの名前と贖罪の理由を挙げる。

 最初にその名を挙げられるのが詩人であり、公証人でもあったボナジュンタ・ダ・ルッカ(1220頃‐90)であった。彼の後ろにいる「ひびわれた顔の」人物は美食家であったローマ教皇マルティヌスⅣ世(1210-85)であり、「絶食により/ボルセーナの鰻とヴェルナッチャの白葡萄酒を償っている」(352ページ)と説明された。これは市民の反発を受けてローマに拠点を構えることができず、オルヴィ干支やペルージャなどの地方を転々としていたマルティヌスの政治的な軌跡を、これらの地方に近いボルセーナ湖産の鰻をフランスのイタリア進出の拠点であるリグリア地方にあるヴェルナッチャ産の白ワイン漬けにして焼いた料理を好んだ罪を償っているという表現で批判しているものと理解できるそうである。この時代に、イタリアでは鰻をこのように料理して食べていたということに驚くのだが、天国にいけそうもない私は、むしろこのイタリアのウナギ料理を食べてみたいという気持ちにとらわれている。もっとも、最近は健康上の理由から、ウナギは食べないことにしているのである。

  ボナジュンタは、霊界を遍歴するダンテを助ける有徳の女性の存在を伝えると、自分の目の前にいる人物が「愛の本質を解する貴婦人達よ」(354ページ)という書き出しで始まる詩集『新生』の作者であるかと問う。『新生』は青年ダンテが清新体派の詩人として書き記した詩集である。
そこで私は彼に、「私こそは、愛が私に息吹を吹き込んだ
その時に記し、そして愛が私の中で口述する
そのままを言葉に置き換えていくその一人だ。」
(354-355ページ)とダンテは答える。

 ボナジュンタ・ダ・ルッカはプロヴァンスやシチリア派の詩法をトスカーナに直接持ち込んだシクロ=トスカーナ派の詩人で、ダンテたちとは対立していたのだが、ダンテと詩法をめぐる議論を展開する。その中でダンテが属していた清新体派に至るまでのイタリア俗語詩の流れを要約的に語る。俗語というのは、この時代すでに古典語であったラテン語ではない、当時の人々が社会生活の中で日常的に使っていた言語であり、ダンテにとっては何よりも、イタリア語、南フランス語、フランス語の3つの言語を意味していた。清新体というのは、ダンテ、グイド・カヴァルカンティ、グイド・グィニツェッリなどの詩人が属した、最初にボローニャ、次にフィレンツェで起こった詩派であると説明されている。また、ダンテの答のなかに、彼の考えたところでの清新体派の詩の特徴がまとめられているようである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR