『太平記』(91)

2月19日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)5月21日、倒幕の兵を率いた新田義貞の軍勢は、鎌倉市中に攻め入った。鎌倉に火が放たれ、幕府方に裏切りが続出する中、北条一門の多くは討ち死に、また自害した。得宗家の内管領を務めた長崎円喜の孫である長崎次郎基資は武蔵野の合戦から引き続いて戦闘に参加し、奮戦を重ね、いったん北条高時のもとに戻って、もはや体制を挽回することはかなわないまでも、最後の奮戦をしてから、冥途の御供しましょうといって、旗印を隠して敵陣のなかに忍び込み、新田義貞のすぐ近くまでたどり着いたが、正体を見破られ、かくなるうえはと激戦を続けた。

 基資は声を張り上げて、自らが長崎円喜の孫、基資であると名乗り、手柄を立てようとするものはやって来いといい、鎧の袖や草刷りを切り捨てて、次第に軽装になってなおも戦おうとするが、部下の者がその馬の前に立ちふさがって、何をされるのですか! 敵は鎌倉の谷(やつ)のひとつひとつに乱入し、もはや大勢は決しています。早くお帰りになって、高時様にご自害あそばされるようにお勧めすべき時ですという。それで基資は「そのとおりだ、人を斬るのが面白いので、高時様と約束したことを忘れてしまった。さあ、それでは、高時様のもとに帰ろう」と主従8騎で、鎌倉の山の内に戻っていく。基資と戦っていた、武蔵七党の一員である児玉党の武士たち50余騎が、「卑怯だぞ、戻ってきて戦え!」と叫ぶ。基資の率いる8騎の兵は、敵が近づいてくると戦って追い散らし、いったん離れてまた敵が近づいてくると戦い、山の内から高時の待つ東勝寺のある葛西谷(かさいのやつ)まで17度も戦いを繰り返してたどりついた。

 基資は鎧に矢が23本、蓑に編んだ菅や茅のようにそのまま、あるいは折れて突き刺さっているそのままの姿で、高時のもとにはせ参じた。思っていたよりも遅くなってからの帰参であったので、祖父である長崎円喜は、なんでこのように遅かったのかと問いただしたが、もし敵の大将である新田義貞に出会えば、組み合って、勝負を決しようと思って、20回以上敵陣のなかに攻め入りました。敵の様子を窺ったのですが、ついに大将と思しき武士には出逢わず、とるに足るとも思われないような武蔵、相模の小名たち、雑兵たちを4・5百人切って捨てました。さらに連中を海岸に誘いだして、輪切りにでも、胴切りにでも、縦割りにでもしてやっつけてやろうと思っておりましたが、高時様がいかがなされているかが気になって戻ってまいりました。どうか、早く鎧、兜をお脱ぎ棄てになって、ご自害くださいますよう。基資がまず手本をお示しいたしましょうと、鎧を脱いで投げ捨て、高時の前に置かれていた盃をもち、弟の新左衛門に酒を注がせて3杯まで飲んで、近くにいた摂津刑部大輔入道道準の前に盃を置き、席次の順にかまわずにあなたに盃を回しました。私の最期の様子を肴にして、盃をあけてくださいと腹を切る。

 これを見た道準は盃を取って、なんともすばらしい肴であることよ、これを見たら、どんな下戸でも酒を飲まずにはいられなくなると、冗談交じりに言いおき、盃半分を飲み残して、諏訪左衛門入道の前に盃を置いて、同じく腹を切る。この諏訪左衛門入道というのは、高時の次男である亀寿を背負って落ち延びていった諏訪盛高の父である。諏訪入道はその盃を取り上げ、心静かに3度傾けて、高時の前に盃を置き、若い連中はなかなか見事な芸を見せてくれましたが、私どものような年配のものもなにも芸を見せないままでいるわけにはまいりませんと言い、これから後は、これを送り肴にしましょうと十文字に腹を切り、その刀を高時の前に置いた。

 長崎円喜は、これまでも高時の様子を心配しながら見守っていたが、その孫で基資の弟である長崎左衛門次郎がその前に畏まって、父祖の名誉を保つことが、子孫の孝行の1つだと思うので、これからすることを仏神もお許しくださるでしょうと、円喜の肘の関節のあたりの下腹を刺し貫き、返す刀で自分の腹を切って、同じ枕に倒れ伏す。元服したての若者である左衛門次郎の振舞に促されるように、高時も腹を切ったので、その傍に伺候していた城入道安達時顕も続いて腹を切った。

 この様子を見て、東勝寺の本堂の内外にいた北条一門の人々、側近の家来たちがそれぞれ自害を始めた。その後で館に火を懸けたので、黒い煙がもうもうと立ち込め、さらに家臣のもので、炎のなかに駆け込んで腹を切ったり、刺し違えて死んだりするものが後を絶たなかった。知が大河のように流れ、町はずれの墓場のように死骸が積み重なっていた。高時とともに自害した人の数は、後で調べたところ873人と分かった。さらに北条氏の恩を受けた様々な人々が僧俗を問わず、自殺し、その数は6千人を超えたと伝えられる。

 「於戯(ああ)、この日いかなる日かな、元弘3年5月22日、平家9代の繁昌、片時(へんし)に皆滅び畢(は)て、源氏多年の愁訴を一朝に開きたる事を得たりけり」(第2分冊、161ページ、ああ、この日はどのような日であったのだろうか、元弘3年5月22日、北条氏の9代の繁栄が、一瞬のうちに皆滅び去ってしまい、源氏は長年の愁いや悲しみを一時にして払うことができた)と『太平記』の作者は記す。この動乱が源平の対立という枠組みに収まりきらないものであることを作者は知らなかったのか、あるいは知っていても意識的に無視したのであろうか。

 北条氏得宗の高時たちが集団で自殺したことをもって、鎌倉幕府が滅びたと書いたし、一般にもそのように理解されているが、形式的にせよ、鎌倉幕府の最高権力者は京から下った征夷大将軍である守邦親王であった。宮将軍とその周辺の動きについて何も記されていないところにも、この時代の人々の意識を読み取ることができよう。
 なお、『増鏡』は『太平記』がこまごまと記した戦況を(義貞が稲村ケ崎で太刀を海神に奉じた件なども省いて)「かくて日々の軍(いくさ)に打ち負ければ、同じき廿二日高時以下、腹切りて失せにけり」(講談社学術文庫版、下、369ページ)とごく簡単に片づけている。『太平記』の作者のほうが、鎌倉幕府の滅亡を詳しく記すことによって、ひそかに同情を示していると考えることもできるだろう。『梅松論』の記述は、また違って、鎌倉幕府の滅亡を記しながら、「時政の子孫七百余人同時に滅亡すといへども、定置ける條々は今に残り、天下を治め弓箭の道をただす法と成けるこそ目出度けれ」(群書類従第20輯、162ページ)と、武家政治の基本原則は鎌倉幕府が滅んでも残ったと記している。その後に成立した室町幕府にとって都合のいい論調である。

 こうして『太平記』第10巻は、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による倒幕の事業の完成をもって終わる。この後の第11巻は滅亡後の様々な出来事を拾い上げる内容となっている。それがどのようなものであるかの紹介は、次回以降に譲ることにしたい。
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