『太平記』(90)

2月13日(土)曇り後雨

 元弘3年(1333年)5月、上野の国の武士新田義貞は倒幕の兵を起こしたが、幕府の政治に不満をもつ関東一円の武士たちが参集して大軍となり、幕府が派遣した討伐軍を破り、5月18日は鎌倉を攻囲して、極楽寺坂、小袋坂、化粧坂の三方から攻撃を開始した。討幕軍は極楽寺坂の戦いで苦戦したが、5月21日の早朝に大潮を利用して義貞の軍が稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入るとほぼ勝敗は決した。市中のあちこちに火が放たれ、幕府軍からは裏切りが続出した。その中で北条一門や得宗被官の武士たちの中には飽くまで戦って最期を遂げたり、辞世の歌や頌を残して自害したりしていった。北条高時の弟泰家は、諏訪三郎盛高に、彼にとっては甥にあたる亀寿(北条時行)を連れて落ちのびるように命じ、自らも身をやつして東北方面へと落ち延びていった。

 長崎次郎基資は長崎円喜の孫、高時の内管領である高資の子であり、小手指原・久米川で新田勢と戦って敗れた幕府軍の大将の1人であったが、その時から昼夜80度余りの合戦に常に先頭に立って戦ってきたので、自身も負傷を重ね、また部下の兵士たちの大部分を失って、今はわずか140騎余りの武士たちが従うだけになってしまっていた。22日、新田方の兵士たちが鎌倉のあちこちの谷(やつ)に攻め入り、北条氏の主だった武将たちが戦死するという中で、とくに決まった部署を守るということではなく、各地に転戦して敵と戦い続けていた。馬がつかれれば、別の馬に乗り換え、太刀が折れてしまえば、また新しい太刀を佩いて、32人の敵を切り捨て、8度敵の軍勢を追い散らした。

 こうして北条高時が戦火を避けている東勝寺にやってきて、表門と本堂の間にある中門のところから畏まって申し上げることには、基資を含む長崎家が数代にわたってありがたくも北条家にお仕えして、朝夕間近で殿のお顔を排し奉るそのおなごりも、この世ではこれが最後だとお思いください。基資はこれまで数カ所の合戦でそれぞれ敵を打ち払い、それぞれの戦闘で勝利を収めてまいりましたが、あちこちの防御線が破られて、新田方の軍勢が鎌倉中にあふれており、今となってはどのように武勇をふるいましても形勢を挽回することは不可能に思われます。敵の手に懸かるのではなく、自ら命を絶たれることを語覚悟なさいませ。とは申しましても、基資がもう一度戦いに出かけて、帰ってくるまでは自害されずに、お待ちください。殿が御存命中に、もう一度敵のなかに懸け入って、思う存分戦い、冥途のお供をするときに、その様子を思い出話としてお聞かせいたしましょう。こういいおいて、基資は再び東勝寺を出ていったが、その姿を見送りながら、高時は涙を流したのであった。

 基資はこれが最後の合戦であると思っていたので、高時が建立し、材木座の近くの弁谷(べんがやつ)にあった禅宗寺院である崇寿寺の長老(住職)である南山和尚のもとに出かけた。禅師は上座に座って面会された。事態は差し迫っており、鎧・兜を着た(通常の衣服ではない)者は、正規の挨拶はしないものなので、基資は庭に立ったまま軽く左右に会釈して、次のように問うた。「如何なるか、是(これ)勇士恁麼(いんも)の事(じ)」(第2分冊、154ページ、勇士はこうしたときにどうふるまうべきか)。和尚は次のように答えた。「吹毛(すいもう=吹きかけた毛を切るほどの名剣ということで、剣を意味する禅語)急に用ゐて、前(すす)まんには如かじ」(同上、剣を激しくふるって進むほかない)。基資はこの言葉を聞いて、合掌低頭して和尚に別れを告げた。何か心中に期するところがあったのか、自分が率いる兵たちの笠符(かさじるし)をみな棄てさせ、寺の門前から馬に乗って、150騎を自分の前後に配置し、静に馬を進めて、新田勢の軍中に紛れ込んだ。義貞に近づいて、彼の命を奪おうという意図からである。

 基資は旗を揚げずにどこの軍勢かはわからないようにして、刀剣もさやから抜かないようにして近づいていったので、新田の兵たちはこれが敵だとは気付かずに、そのまま中に通してしまい、基資たちの軍勢は新田義貞がいるところからわずかに半町(50メートル)というところまで近づいた。これならば、義貞を討ち取れるかもしれないというところまで来たときに、義貞の前に控えていた由良新衛門という武士が、今、旗を揚げずに近づいてきた武士は長崎基資らしい。逃がさずに、討ち取れと下知を下す。義貞の前に控えていた武蔵七党の武士たち1,000余騎が東西から基資の率いる軍勢を取り囲み、包囲して、殲滅しようとする。
 もう少しのところで正体がばれてしまったので、基資は自分が率いる150余騎の兵たちに一所に固まって鬨の声を上げるように指示し、包囲してきた武蔵七党の武士たちに対し、縦横に攻め入って、攪乱を図る。武蔵七党の武士たちの1人で、義貞の家来であった長浜という武士が、基資の率いる兵たちは笠符をつけていない、そういう武士たちを狙って組み付いて行けと指示する。そこで、基資の率いる武士たちに組み付いて、馬から引きずり落とし、頸を取ろうとする。両者入り乱れての乱戦が続く。

 大軍に包囲され、配下の武士の数は減っていったが、それでも長崎次郎は戦死せずに戦い続け、主従8騎になっても、まだ義貞に近づいてその命を奪おうとしていた。その姿を見た武蔵七党の1つ横山党(武蔵国玉郡横山、現在の八王子市の一部を本拠とした武士たち)の1人横山太郎重真が組み付こうと近づく。基資も自分にふさわしい相手であれば組み付こうとして見ると、横山なので、これは自分にはふさわしくない相手であると判断し、4尺3寸という長い刀で一気に彼を斬り捨てる。横山が乗っていた馬が尻もちをつくほどの気合である。今度は武蔵七党の児玉党の武士である庄三郎長久が相手になろうと挑みかかるが、庄の相手をするくらいならば横山を嫌うことはないといって、彼の鎧をつかんで投げ飛ばし、投げられた庄はそのまま血を吐いて死んでしまう。

 武蔵七党(党というのは小名の集まりをいうそうである)は、日本史の教科書にも取り上げられる、東国の武士を代表する存在なのだが、北条得宗の被官である基資の武勇の前にはかたなしである。とはいうものの、基資の武勇はろうそくが消える前の炎の揺らめきのようなもので、大勢を逆転するようなものではない。基資の運命は、そして彼を含む長崎一族と、長崎一族が使えてきた北条得宗家の人々の運命は、すでに定まっているように思われるが、どうなるのだろうか。
 なお、安田元久『武蔵の武士団――その成立と故地を探る』(有隣新書)によると、横山党はもともと小野氏で、武蔵の国から上野、相模にもその一族の勢力は拡大し、横山氏のほか、小野・遠田・椚田(くぬぎだ)・井田・荻野・成田・中条・箱田・奈良・田谷・河上・玉井・別府・愛甲・海老名・山口など数十の家系が横山党を称していたそうである。横山氏は三浦氏、とくにその1人である和田義盛との結びつきがあって、鎌倉幕府でも大きな存在であったが、建保元年(1213年)の和田合戦で勢力を失う。安田さんの本では、これで滅んだことになっているが、残ったものもいたことが『太平記』によって分かるのである。
 同書によると児玉党は武蔵七党の中では最も大規模であったが、児玉氏はもともと有道氏で、現在の児玉郡から本庄市一帯を本拠地として勢力を拡大していたようである。安田さんの著書では武蔵の武士団と成立期の鎌倉幕府の関係に重点が置かれているが、『太平記』を読むと、鎌倉幕府の滅亡にも武蔵七党がかかわっていたことが分かり、興味深い。

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