ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(23-1)

2月10日(水)晴れ

 1300年4月12日、ダンテはウェルギリウスに導かれて、煉獄の第6環道を歩んでいる。煉獄で罪を浄め、天国へと向かっているローマ白銀時代の詩人スタティウスがウェルギリウスとともにダンテの前を行き、詩法についての対話を続けている。彼らは上下が逆になった不思議な大木に出会う。

私が緑の茂みに向かって、まるで小鳥の後を追って
人生を虚しく過ごすものがいつもそうしているように
目を凝らしている間に。

父より大きな存在でいらっしゃる方が私にこう話していた。「息子よ、
もうここを立ち去るのだ。我らに与えられた時は
もっと有意義に配分せねばならぬからだ」。
(336ページ) ウェルギリウスはこういって、道を急ぐべきであると諭す。こうしてダンテがまた先へと進もうとすると、
するとここに涙を流しながら歌うのが聞こえた。
「我が唇を、主よ」と。それは
喜びと憐れみをもたらすような響きだった。
(336-337ページ) ダンテはこの声が誰のものであるかをウェルギリウスに問い、ウェルギリウスは第6環道で罪を贖っている霊たちのものであろうと答える。

私達の後ろから、敬虔な魂たちの一団が、沈黙を守りながら
ひときわ急いだ足取りでやってきて追い越しながら
私たちを驚き眺めていた。
(338ページ) 彼らの痩せ衰えた姿は想像を絶するものであり、ダンテは彼らの姿を驚き眺めていたが、その中の1人がダンテに声を掛ける。

するとある影がここで、顔の深い窪みの底にある
目を私に向けてじっと凝らした。
それから強く叫んだ。「これは何という恩寵が私に」。
(340ページ) 声の主はダンテの若いころの詩人仲間であったフォレーゼ・ドナーティ(?-1296)の霊であることに気付く。彼はダンテと政治的に敵対したフィレンツェ黒派の有力者コルソ・ドナーティの弟であり、ダンテの妻であるジェンマは彼の従姉妹であった。ダンテとフォレーゼとは戯れ歌のような詩を交換していた仲である。そして、彼はダンテとの再会を喜びながら、彼を導いている2人の霊が何者であるかと問う。

 これに対して答える前に、ダンテは、フォレーゼがなぜこのようにやせ衰えた姿をしているのかを問い、フォレーゼは、自分が中庸の徳を破って飽食に明け暮れる生活をしていたからであると答える。第6環道は飽食の罪を浄める場所なのである。ここで飽食というのは、文字通りの飽食も含めて、虚栄やぜいたくな生活にあこがれる気持ちを含んでいるようである。
涙を流して歌っているこの人々は皆、
中庸を越えて食を追い求めたため
ここで飢え渇くことにより再び清くなる。

緑の茂みの上に撒かれる
飛沫から立ち上る、そして果実から漂う香りが、
飲み食べることへの欲望を我らのうちに掻き立てる。
(342ページ) 彼らは生前に犯した飽食の罪をこうして償っているのであるが、罪を浄めるために罰を受けることによって、天国に近づいているという希望があるので、喜びの感情を失っているわけではないという。ダンテの時代にはアリストテレスの哲学で説かれている中庸の徳が何よりも大切なものと考えられていたのである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR