『太平記』(89)

2月7日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)5月21日早朝、新田義貞の率いる討幕の軍勢は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入った。市中のいたるところで火が放たれ、幕府方からは裏切りが続出した。北条一門や得宗被官の武士たちは飽くまで戦って戦死したり、もはやこれまでと自害したりしていった。

 得宗被官の武士たちの1人で、諏訪左衛門入道の子息である諏訪三郎盛高は、連日数度の合戦で配下の武士たちをほとんど失い、とうとう主従2人だけになって、北条高時の弟である泰家のもとにたどりついた。泰家は分陪河原の合戦では大将を務めたが、それより前正中3年(1326年)に高時が病気で執権職を退いた時に、跡を継ぐものと思っていたところ、内管領である長崎高資の反対で継ぐことができず、怒って出家したという経緯があって、高時とは距離を置いていた。泰家こそが主君であるという武士たちも多く、盛高もその1人であったのである。諏訪氏は信濃の一宮である諏訪上社の社家(世襲の神職の家柄)であり、鎌倉時代に得宗の被官となって、その勢力を伸ばした。全国に諏訪神社があるのはこのためである。

 盛高は、鎌倉市中での合戦もほぼ決着がつき、あとは自分の命を絶つだけになってしまった。あの世までお供するつもりなので、早く腹をお切りくださいと泰家に勧めていった。
 これに対して、泰家は人払いをしたうえで、盛高に向かって次のように囁いた。
 「この闘ひ慮(はか)らざるに(出で来て)、当家すでに滅亡する事、更に他なし、ひとへに相模入道殿の御振る舞ひ、人望にも背き、神慮にも違(たが)ひたりしゆゑなり。但し、天たとひ驕りを悪(にく)み、充(み)てるを欠くとも、数代積善の余慶家に尽きずは、この子孫の中に、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す者、いかでかなからん」(第2分冊、146-147ページ、この戦いが思いがけずに起きて、北条氏が滅亡しようとしていることは、全くほかでもない、ひとえに相模入道(北条高時)殿の振舞が、人望にも背き、神の思し召しと違っていたためである。とはいうものの、天がたとえ驕りを憎み、満つれば欠くという世の習いがあっても、数代にわたって積み重ねてきた善行の果報が当家に尽きないならば、この子孫の中に、絶えた家系を継ぎ、廃れた家名を再興するものが、どうしてないといえるだろうか。)
 そして中国の春秋五覇の一人である斉の桓公にまつわる説話を引用して、無道な君主のために滅びかけた国を忠臣が君主の一族を伴って国を去って、その後帰国して再建した例もあるといい、自分には深く考えるところがある。むやみに自害をすべきではない。困難には違いないが、ここはいったんどこかに逃れて、敗戦の屈辱を晴らす時を窺うべきだと思う。おまえ(=盛高)もよく考えて、どこかに逃げ隠れるか、そうでなければ降参したふりをして、自分にとっては甥である高時の次男の亀寿(後の時行)を隠し育て、時が来たと思われるときに再び大軍を起こして宿願を遂げるべきである。高時の長男である万寿は、母方の伯父である五大院(ごだい)右衛門に託してあるからまず安心だという。

 これを聞いて、盛高はびっくりした。これまで必死に戦って、そのうえで自分の忠義を明かしだてるために主君とともに腹を切ろうと覚悟を決めていたのに、泰家は何とか落ちのびて再起を図ろうと考えていたのである。それでも、すぐに死を決意するのはたやすいが、生きながらえて謀を廻らし、これを後世に示すのは難しい。しかしながら、とにもかくにも泰家に言いつけられたことに従ってみようと、高時の寵愛する側室であり、万寿(邦時)と亀寿の母である新殿(にいどの)のいる扇ガ谷に向かった。そこにはまだ亀寿が残っている。

 盛高が新殿のもとを訪れると、彼女は大いに嬉しそうな様子を見せて、大変なことになってしまったが、自分は女性であるから何とか隠れる場所も見つかるだろう。万寿は彼女の兄である五大院右衛門が連れていったので安心だが、亀寿のことが気にかかってならないという。盛高は、泰家の言葉をそのまま伝えて安心させようかとも思ったが、女性のことで口が軽いので、どこかに秘密が漏れては困ると思い、心を鬼にして、もはや北条一門の逃れる道はない、万寿についても敵は厳しく追及しているし、亀寿については高時が手元に呼び寄せて道連れにしようとされていると嘘をつき、亀寿の身の回りの世話をしている女性たちが泣き叫び、止めようとするのを無理やりに連れ出して、自分の背に追って入って屋敷を出た。女性たちの泣き叫ぶ声が門を出てもまだ聞こえてきた。亀寿の乳母は悲観の余り井戸に身を投げて死んでしまった。

 盛高は亀寿を連れて信濃の国に戻ることができ、諏訪社の神官である祝(はふり)氏を仲間に引き入れて、この後、建武元年(史実は2年=1335年)にしばらく関東一円を支配し天下に争乱(中先代の乱)を引き起こすことになった。(それについては、また語るときが来るはずである。)

 その後、泰家は信頼できる家来たちだけを集め、自分は思うところあって、奥州に落ち延びたうえで、再起を図ろうと思う。南部太郎と伊達次郎の2人は(それぞれ青森県八戸市、福島県伊達郡の武士であり)、土地の地理に詳しいものであるからついて来るように、その他のものは自害して、屋形に火を懸け、自分が切腹したように敵に思わせろと指示を与える。20人余りの武士たちが一言の異議も挟まず、仰せに従うと答えた。伊達と南部の2人は徴用された雑兵に身をやつし、中間の者2人に鎧を着せて馬に乗せ、新田の紋を書いた笠符(かさじるし)をつけ、泰家を青駄(あおだ)と呼ばれる即製の釣り輿に乗せて、その上から血の付いた帷子を打ちかけて、負傷した武士が本国に帰る様子に見せかけて、まず武蔵の方に落ち延びていった。

 かなり時間がたってから、残っていた20人ほどの武士たちは中門まで走り出て、殿はもうご自害された、心あるものはお供せよと叫び、屋形に火を懸け、煙の中で腹を切った。これを見て、庭先や門前で守備にあたっていた武士たち300人ほども切腹して、猛火の中に倒れ伏した。この様子を見たので、泰家が落ちのびていったと思うものは誰もいなかった。

 幕府方の武士たちの様子を、裏切るもの、あくまで戦って最期を遂げたもの、自害したものと描いてきて、今度は落ち延びて再起を図ろうとする北条泰家と、諏訪盛高、盛高に連れられた北条時行の動向を記す。泰家が盛高に時行を託したのは、盛高が信頼できる武士であったことに加えて、諏訪氏が信濃に強固な勢力をもっている一族であったからであろう。分陪河原の合戦では緒戦の勝利に油断して、大敗し、鎌倉陥落の原因を作った泰家であるが、それなりに智略と強靭な精神をもった武将であったことが見て取れる。さて、泰家の兄である相模入道高時はどうしているのであろうか。
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