五味文彦『中世社会のはじまり シリーズ日本中世史①』(3)

1月27日(水)晴れ

 第2回で、この本の前半部分について取り上げたのに続き、今回は後半部分である第4章~第6章を読んで、印象に残ったところ、気になったところを列挙していく。

 第4章「武者の世と後白河院政」では保元・平治の乱とそれに続く平氏の隆盛について論じていることは、既に述べたとおりであるが、その一方で、
「院政時代になって氏から家が形成されてきたが、このことを歴史物語として語っているのが『今鏡』である。これに先立つ『大鏡』の記事が終わる万寿2年(1025)から嘉応2年(1170)にかけての歴史を描き、『大鏡』が藤原道長個人を扱うのとは違って、150年に及ぶ歴史の流れを、「すべらぎ」「藤波」「村上の源氏」「御子たち(源氏)」の4つの氏の流れに沿って語り、それらから漏れた話を「昔語り」「打聞」として載せている。
  「すべらぎ」では国王の氏の流れ、「藤波」では御堂流の藤原氏の流れ、「むらかみの源氏」では村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子師房に始まる源氏の流れ、「御子たち」では村上源氏以外の源氏の流れについて描いており、その関心事は氏の流れから生まれた家の展開にあった。」(136ページ)
 <四鏡>というと、『大鏡』、『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』であり、『大鏡』は文徳天皇の嘉祥3年(850年)から、後一条天皇の万寿2年(1025年)までの、『今鏡』は後一条天皇の万寿2年(1025年)から高倉天皇の嘉応2年(1170年)までの、『増鏡』は治承4年(1180年)の後鳥羽院の御誕生から、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が京都に還幸されるまでの、そして『水鏡』は神武天皇から仁明天皇の嘉祥3年までの歴史を記している。(『水鏡』→『大鏡』→『今鏡』→『増鏡』の順で、日本の歴史を語っているのだが、ところどころで空白の期間ができているのはどういうことであろうか。)
 著者はさらに、「実は『今鏡』の作者はその為忠の子の為経であって、為忠は『大鏡』の作者と考えられる。為経は美福門院に仕え、その女房加賀との間に隆信を儲けたが、隆信は散逸した歴史書の『弥世継』の著者とされている。ならば『今鏡』は、歴史物語を表す家の継承を考えて書かれたともみられる。この家には多くの情報が集まり、蓄積されてきていた」(138ページ)とも書いている。藤原為忠の「家」が世継の物語を書くことをその職としていたというのである。ではなぜ、「鏡物」なのか(軍記物語や説話集とどこがどう違うために、ある「家」の独占物とされようとしたのか)、「鏡物」の成立と展開を考える際に、これは見逃せない見解なので、機会を見て五味さんなり、その他の著者がこれらの問題についてまとまった著書を刊行されることを期待する。

 第5章「身体の文化」では、「中世」を代表する仏師である運慶の畿内にとどまらず関東にも及んだ創作活動について触れた後に、「運慶の造った仏像は生身(しょうじん)の仏と見られて崇められた」(176ページ)と書き、さらに「この時期の仏像には、生身仏として崇められた傾向がある」(同上)と指摘する。「同じく「生身の如来」の信仰が広まったのが、永観元年(983)に宋に渡った奝念がもたらした嵯峨の清凉寺の釈迦如来像である。この生身の如来の霊験に与ろうとする多くの参詣・参籠者で賑わうようになったのは、治承元年(1177)の頃からで、『清凉寺縁起』によれば、多くの人の夢に清凉寺の釈迦が西に帰るという告げがあって、上下万民が雲霞のごとく群集し名残を惜しんだので、日本にとどまるという告げが再びあったという。」(177ページ) 著者は触れていないが、この話は同じ時代に成立したと考えられる仏教説話集『宝物集』の発端ともなっている。鹿ケ谷の陰謀に加わったために鬼界が島に流されたが、神仏のご加護に依って都に帰ることのできた男(平康頼)が、東山にこもって信心を深めていると、清凉寺の釈迦が西に帰るという噂を聞いて、その前に一度お参りしなくてはと清凉寺に出かけ、そのまま寺に籠もるというところから話が始まる。生身の如来の信仰が広範なものであったことをここからも確認できる。

 第6章「職能の文化」では『徒然草』をめぐる著書がある五味さんらしく、兼好が職人たちの生活や考え方をよく理解していたことを述べているのが興味深い。その一方で、兼好が自分の有職故実についての知識を披露して、売り込みのための材料として活用していたことも指摘されている。
 また、世阿弥の『花伝書』が、年齢の階梯に沿って、各段階の芸のあり方を記していく中で、「型」の重要性を強調しており、これが日本の芸能における伝統となったと述べているのも興味深い。7歳くらいから芸を始めるのがよいが、あまりおしえこまない方がよいというので、思い出したのは、落語家が噺を覚える際に、前座の段階では大づかみに覚えて、詳しい稽古をつけてもらうのは二つ目になってからだという話である。そういう意味で、中世の文化的な伝統の影響は今日にも及んでいるのだなぁと思ったりした。

 この本を読み終えた後で、吉川幸次郎『元明詩概説』(岩波文庫)の中の、第1章「13世紀前半 金の亡国による抵抗の詩」を読み返していて、金が蒙古の攻勢を受けて都を中都=北京から新都「汴京」=開封に移したが、開封の繁栄は南宋の都杭州ほどではなかったにせよ、贅沢な消費生活が展開されていたとする。「若いころの元好問が、蒙古の脅威をよそに繁栄する新都開封の町の、「元夕」すなわち正月十五日のにぎわいを詠じた七言絶句にいう、
 袨服華粧著處逢   袨(きらびや)かなる服と華やぐ粧(よそお)いに著(いた)る処にて逢う
 六街燈火鬧児童   六つの街の灯火に児童鬧(さわ)ぐ
 長衫我亦何為者   長衫の我れは亦(また)何為(す)る者ぞ
 也在遊人笑語中   也(ま)た遊人の笑語の中(うち)に在り
 詩人自身は、「長衫」マントを羽織る書生であった。しかし月明のもと、六つの大通りは灯籠のイルミネーションにかがやき、「袨服華粧」の女性に充満するのであった。日本ではちょうど『新古今集』の時代であり、源実朝が殺されたころであるが、京都や鎌倉にくらべて、はるかに繁華な都市であった」(吉川、同上、32-33ページ)。
 金について、中国の北方で中国の文化を学びながらも、独自の文化を作り出そうとした国というように、五味さんのこの書物の最初の方で述べられているが、その実態はもっと複雑であり、一方で、国風文化を作り出そうという動きがあり、他方で、中国の言語や文化を学んで、それよりももっとすぐれた文化を生み出そうとする動きもあった。そして金の文化的な堆積の中から、大詩人元好問が生まれたのであるが、金国は滅びる運命にあった。

 西欧の中世は何よりも<都市>の時代であったが、日本の「中世」における<都市>は規模の点でも、その勢力の点でも、及ばないような気がする。周囲を城壁で囲んでいるという点では、中国の<都市>のほうが、西欧の<都市>に近いのではないかと思う。そういう点も含めて、五味さんのこの書物は結論の書というよりも、問題提起の書として読まれるべきであると思う。
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