ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(22-1)

1月26日(火)晴れたり曇ったり

すでに天使は私達の後ろにいらした。
天使は私の顔から一振りで印を消し、
第六の環道に私たちを差し向けられ、

それからその方は、己の願望を正義に置く人々は
幸いなるかな、と私たちにおっしゃったが、その声は
「渇く」だけを唱えて、それ以外はおっしゃらずにその一節を示された。
(320ページ) 第20歌の終わりで、煉獄の第5環道を歩んでいたダンテとウェルギリウスは「地震」と歓声を聞く。第21歌で2人に追いついてきた魂が、これらは煉獄の魂が償いを終えて天国へと歩み始めるときに起きる現象であると説明し、自分はローマの詩人スタティウス(45頃‐96)であったと名乗る。ダンテを案内しているのが、自分の尊敬する先達のウェルギリウスであることを知って、スタティウスはウェルギリウスを抱きしめようとした。彼らの後ろにすでに、天使がいて、ダンテの顔から、煉獄の門で額に刻み付けられた7つのPの文字(第9歌)のうちの1つを消し、第6環道への道を指示した。天使は「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイによる福音書5.6、新共同訳による)という聖書の言葉の、「渇く」だけを唱えて、「飢え」は口にしなかった。これから彼らが辿ることになる第6環道で償われる罪が「飽食」であり、その罰が「飢え」であるからである。

 こうして彼らは第6環道に続く道を登りはじめた。また1つ罪のしるしを消すことができたダンテの足取りはますます軽く、確かなものになり、何の苦労もなく健脚の霊たちについていった。
その時ウェルギリウスは話しはじめた。「愛は、
徳によって燃え上がると必ず他の愛を燃え上がらせる。
その炎が外に姿を現しさえすれば。

それゆえ地獄のリンボにいた我らの間に
ユウェナリスが降りてきて、
君の愛情を私に明らかにしたその時以来、

君に対する我が好感は、
まだ見ぬ人物に対して人が持った例(ためし)がないほどだった。
そのため今の私にはこの階梯が短すぎるように思われることだろう。
(320-321ページ) 第21歌ではスタティウスのウェルギリウスへの傾倒が彼の口から語られたが、ウェルギリウスのほうでもユウェナリス(デチムス・ユニウス・ユウェナリス(47-130、松下仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ』のユウェナーリスの項によると、67?‐127以降と推定されている。彼は同時代においてそれほど高く評価されず、作品の中で自らについて語ることも少ないため、その伝記については不明な点が多いという)というスタティウスと同時代の詩人の魂が死後、リンボにやってきたときにスタティウスのウェルギリウスへの愛情を伝えたので、スタティウスには関心をもっていたと語る。

 そして友人として質問したいと前置きをして、「・・・
一体どうやって貪欲が
君の心に居場所を見つけられたのか、研鑽ゆえに
あふれるほどに豊かな君の知の中に」
(322ページ)と、彼が煉獄でその罪を贖っていた理由を尋ねる。歓呼に送られて天国に向かう魂というのはスタティウスの魂なのであるが、煉獄にいた期間は1000年を超す長さであり、彼が貪欲の罪を償っていたというのもウェルギリウスには理解できなかったのである。
 この問いに示されたウェルギリウスの自分に対する友情にスタティウスは感動しながら、自分は貪欲ではなくその正反対の性向浪費のために煉獄で長い時間を過ごしたのだという。吝嗇も浪費も貪欲と共に罰せられるのである。スタティウスは言う:
『黄金への聖なる渇望よ、おまえはなぜ
必滅の者達の欲求を抑えられぬ』というくだりのことですが、
往復を繰り返しつつ、惨めな馬上槍試合の激突を味わっていたことでしょう。

あの時に、わたしは金遣いの荒い両腕が
浪費の翼を開きすぎることがあると気づき、
浪費についても他の悪徳と同様に悔悛しました。
(324ページ)と、ウェルギリウスの『アエネーイス』の中の詩句が彼の浪費癖を改めさせることになったことを告げる。スタティウスが口にしたのは『アエネーイス』の第3巻56行~57行で、『神曲』の翻訳者である原さんは、傍注で「この箇所には商行為に寛容さを示す訳文のほか、『黄金への忌むべき渇望よ』とする解釈もある。ただし両解釈とも、黄金に対する過剰な執着(吝嗇)、あるいは軽視(浪費)諌めている」(325ページ)としているが、岩波文庫の泉井久之助訳では
ああ黄金のいまわしい、欲が駆るとき人間は
あえて何でもなすものか。
(『アエネーイス(上)』147ページ)
 また京都大学学術出版会の西洋古典叢書の岡道男、高橋宏幸訳では
おまえが人の心に無理強いできぬものなどあろうか、
黄金への呪われた渇望よ。
(岡、高橋訳、103ページ)となっている。Penguin ClassicsのDavid Westによる英語・散文への翻訳では
Greed for gold is a curse. There is nothing to which it does not drive the minds of men. (p.58)
(黄金への欲は災いのもとだ。それが人間の心を動かさないというのは嘘だ。)
と、今、私の手元にある本を探してみた結果は上記の通りで『アエネーイス』の本文の文脈に照らしてみても、黄金への欲望は呪われたものと理解するほうがいいように思われる。

 さらにウェルギリウスはスタティウスがなぜキリスト教に帰依したのかを尋ねる。これに対して、スタティウスは自分が詩を書くようになったのも、キリスト教に帰依するようになったのも、ウェルギリウスの詩に触れたおかげであると答える。
・・・「あなたこそが、最初に私を
パルナッソス山に送り、その洞穴の泉水を飲ませ、
そして最初に神の御許につくよう私の蒙を啓いてくださったのです。

あなたは夜に歩く人、
光を後ろにたずさえ、己のためにはならずとも、
後に続く人々に道を知らせる人と同じことをなさった。

あなたがこうおっしゃったその時に、『世界は新たになる。
正義と原初の人類が帰り、
新たな子孫が空から降臨する』。
・・・」(326ページ) スタティウスがウェルギリウスの影響のもとに詩を書いたことは文学史的に確認できる。最後でスタティウスが引用するのはウェルギリウスの『牧歌』の中の詩で、ある神秘の男児の誕生とともに世界に正義の女神が帰り、原初の黄金時代が戻るということを意味しているが、中世にはこれがキリストの誕生を予言するものと理解されていた。ウェルギリウスの詩の中の黄金時代への回帰の願望と、初期キリスト教の終末論的な考え方、あるいは中世のキリスト教の終末論的な考え方の間にはもちろん共通性はあるだろうが、それでもエピクロス的な「隠れて生きよ」という考え方の中で『牧歌』を書いたウェルギリウスとキリスト教の間にはかなりの距離があると考えるべきではないかと思う。

 さて、すでに援用した松本・岡・中務編『ラテン文学を学ぶ』でスターティウスについて調べてみたが、その評価は芳しいものではない。「スターティウスは良くも悪くも職人的詩人であって、詩作の要諦は心得ているものの、しばしば情感の深さを欠いており、彼の崇めた「神々しき『アエネーイス』には及びえなかったのである」(209ページ)と片付けられている。
 リンボに入るウェルギリウスにそのスタティウスのことを伝えたことになっているユウェナーリス(原さんはデチムス・ユーニウスと教会ラテン語・イタリア語風に発音しているが、『ラテン文学を学ぶ』では古典ラテン語風にデキムス・ユーニウスとしている)は、ローマの風刺詩の伝統の最後を飾る詩人として、今日もなお多くの読者を得ている。彼の名を知らなくても、「パンと戦車競走を(⇒パンとサーカスを)」とか、「健全な身体に健全な心」とかいう彼の詩の中の句を聞いたことのない人は少ないはずである。
 ダンテはスタティウスをユウェナーリスよりも高く評価しているように思えるが、それは叙事詩人スタティウスは風刺詩人ユウェナーリスに勝る、叙事詩は文学の他の形態よりも優れた形態であるという考えのためではないだろうか。歴史の転換期には優れた叙事詩が出現するのだと論じた歴史哲学者がいたが、さまざまな民族の歴史に照らして、さらに詳しく検証されるべきではないかと思う。
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