『太平記』(87)

1月23日(土)曇り、寒い

 元弘3年(1333年)5月21日早朝、新田義貞の率いる軍勢は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入った。あちこちで火が放たれ、幕府方から裏切るものが続出する中で、得宗の北条高時は自分の館を出て、父祖以来の墳墓のある寺である東勝寺に退いた。得宗家の執事である長崎円喜の一族である長崎為基は来太郎国行が鍛えた名刀を手に奮戦して、そのまま行方知れずになった。

 昨日まで極楽寺坂の切通しを守っていた北条一門の大仏陸奥守貞直は、新田勢が海岸沿いに攻め込んで、背後から攻撃したためにその軍勢が壊滅し、わずか300余騎となり、前後を敵にふさがれて攻撃も退却もできない状態に陥った。遠くを見ると、高時の邸に火の手が上がっているのが見える。それを見て、もはやこれまでだと思ったのか、主人に自害を勧めるつもりであったのか、貞直の郎等30人余りが海岸に出て切腹した。

 貞直はこれを見て、「日本一の不覚人(ふかくじん)の振る舞ひかな。千騎が一騎になるまでも、敵を亡ぼして名を後代に残すをこそ、勇士の本意(ほい)とする処なれ。いでさらば、最後の軍快くして、後人(こうじん)の義を勧めん」(第2分冊、136ページ、日本一の不心得者の振舞であることよ。千騎が一気になるまでも、敵を亡ぼしてその名を後世に残すことをこそ、勇士の本意とするべきである。さあそれならば、快く最後の一合戦を戦って、後代のものに義(の道)を勧めよう)というと、残った250騎余りの武士たちが一斉に騎馬で敵の軍勢の中に懸け入る。まず、新田一族の山名、里見の兵が3,000余騎で控えているところに「をつと呼(おめ)いて懸け入り、一太刀打ちして懸け出でて見給へば、五十騎ばかり討たれて、二百余騎になりぬ」(同上)。続いて、これも新田一族の額田、桃井の軍勢が2,000余騎で控えているなかに攻め込み、駆け抜けたときは180騎になっていた。さらに大井田、鳥山の1,000余騎の中に攻め込んで、パッと引いてみると、60余騎になっていた。4番目に搦手の大将で、義貞の弟である脇屋義助が6万余騎で控えているなかに懸け入り、全滅したのであった。

 小手指原合戦の大将であった北条一門の金沢武蔵守貞将は、山内の合戦で郎従800余人が戦死を遂げ、自らも7カ所傷を受け、北条高時のいる東勝寺に戻ってきたが、高時はその奮戦ぶりに大いに感じ入って、六波羅の南北両探題職に任じる(貞将は既に六波羅の南探題を経験しているのだが、南北両方というところに意味があるのだろうか)という御教書(みきょうじょ=幕府が発給する公式文書)を作成した。貞将は、北条一門はこの日のうちに滅亡するだろうと思ったが、長年抱いていた望みがこれでかなったので、これを冥途の土産にしようと喜んで、また戦場に打って出た。その際に、御教書の裏に
 我が百年の命を棄て
 公(きみ)が一日の恩を奉ず
(第2分冊、138ページ)と大書して、これを鎧の引き合はせ(胴の右わきにある合わせ目)に収め、攻め寄せる大軍の中に懸け入って、討ち死にされたのはあわれなことであった。

 北条(普恩寺)基時は、高時の前に鎌倉幕府の執権を務めた人物であり、はじめ3,000余騎を率いて気和井坂(化粧坂)に向かっていたものの、5日間続いた合戦にその兵の多くを失い、今はわずかに36騎が従うのみとなった。鎌倉市中に敵兵が満ち溢れているので、基時が創建した普恩寺の中に走り込み、皆、同時に自害を遂げた。後で、その現場の様子を見たところ、普恩寺入道(基時)は、子息である越後守仲時が近江の国の番場で自害したことを思い出されたのであろうか、御堂の柱にその血で
 まてしばし死出の山行く旅の道同じく越えて憂き世語らん
(同上、しばらく待ちなさい。死出の山道をともに越えて、この憂き世のことでも語り合おう) と書きつけられていた。長年たしなんでこられた和歌の道なので、最後の時になってもそれを忘れず、自分の愁い悲しみを述べて、後世に伝えようとされたその風雅の心は殊勝に思われたことであった。

 北条(塩田)国時(陸奥入道道祐)の子息である俊時は父親に自害を勧めようと腹を切った。それを見て父親の道祐はかえって心乱れたが、息子の菩提を弔おうという気持ちもあって、日ごろ読誦してきた法華経を読んで、読み終えたら自害しようと郎等たちにそれまで矢を射掛けて防ぐように言いつける。
 その中で長年、家来を務めてきた狩野五郎重光というものがいて、道祐はこの武士に自分が自害したら屋形に火を懸け、自分の首が敵の手にわたらないようにせよといい渡し、身近に置いておいた。読誦が8巻ある法華経の5巻に差し掛かった時に、重光は表に出て、四方の様子を見て、防ぎ矢を射ていた者たちはすべて戦死し、敵が近くに迫っております。早く腹をお切りください、わたしもお供しますという。そこで、道祐は左手で経巻を握り、右手で刀を抜いて、切腹を遂げた。重光はというと、腹を切るどころか、屋形に火を懸けることもせず、主人2人の着用していた物具を始めとする財宝類を使用人にもたせて運び出し、しばらくは円覚寺の蔵主寮(蔵主=経蔵の管理僧の僧坊)に隠れていた。これだけの財宝があれば、一生の間不自由はしないだろうと思われたのであるが、天罰が当たったのであろうか、新田義貞の執事である船田義昌に生け捕りにされて、首を斬られてしまった。

 さらに北条得宗家の被官であった塩飽新左衛門入道聖円とその養子の三郎忠頼、実子の四郎も今はこれまでと腹を切ったのであった。

 今回の箇所では、北条一門と得宗家の被官達のさまざまな最期の遂げ方が、語られたが、これで終わりではない。一門の足並みがそろっていないだけでなく、家臣の中には狩野五郎のような不心得者がいる。そういう状態だから北条氏はほろんだのだともいえるが、むしろ時代そのものがこのように乱れていたと考えるべきではないかと思う。
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