百合子、ダスヴィダーニヤ

1月17日(日)曇り後、小雨(雪に変わるという予報もある)

 横浜シネマノヴェチェントで浜野佐知監督の2011年作品『百合子、ダスヴィダーニヤ』を見る。シネマノヴェチェントは横浜市西区の藤棚商店街に昨年開館したミニシアタアーで、一度出かけてみたいと思っていた。ちょっとわかりにくい場所にあるのだが、一度出かけてしまえば、どこにあるかはわかる。相鉄の西横浜、あるいは京急の戸部が最寄り駅だということであるが、バスを利用するという生き方もある(優待パスをもっているので、わたしはもちろんバスを利用して出かけた)。「映画女優 菜葉菜 特集‼」の一環としての上映である。

 1924年(大正13年)、ロシア語を勉強しながら、雑誌『愛国夫人』の編集に携わっていた湯浅芳子(1896-1990、菜葉菜演)は、先輩作家の野上弥生子(1885-1985、洞口依子演)の紹介で、小説家の中條百合子(後に宮本百合子、1899-1951、一十三十一=ひとみとい演)と出会う。百合子は17歳の時に「貧しき人々の群」を発表して文壇の注目を浴びたが、19歳の時にアメリカに遊学し、コロンビア大学で古代ペルシア語を研究していた15歳年上の荒木しげる(大杉漣演)と出会い、結婚したが、結婚を機に帰国し、社会的な地位を得たことで、その安定を持続させようとする荒木と、新しい生き方を求めて文学にかかわり続けようとする百合子の間の溝は深まっていた。一方、芳子は百合子の招きに応じて、百合子の祖母(吉行和子演)が住む福島県の安積・開成山(現・郡山市)に赴き、二人の仲は親密さを増す。

 ロシア文学の翻訳者として知られる湯浅芳子と作家の宮本百合子の7年間の共同生活の最初の一か月半を取り上げた作品。沢部ひとみ『百合子、ダスヴィダーニヤ』と、宮本百合子『伸子』、『二つの庭』を原作として、山崎邦紀が脚本を書いている。「ダスヴィダーニヤ」はロシア語で「さよなら」という意味であるが、最後の方で、2人がロシアに旅立ち、帰国後、離別に至ったことがごく短く描かれている。おそらくは予算の関係でロシアでのロケ撮影ができなかったことが、このような構成をもたらしたのであろう。題名からいえば、二人の出会いの部分よりも、離別の部分に焦点を当てるべきではなかったかと思われる。

 2人が出会ったのが1924年ということは関東大震災の翌年であり、社会的な不安が大きかった時代である。映画はヒロインたちの人間関係に焦点を当て、ほとんど時代背景には言及していない。ただ、荒木と、芳子が百合子と出会う以前に同棲していた芸妓のセイの2人が胸を患っているというところに世相の一端が見えるのである。
 この時期、中野重治が『むらぎも』で描いた労働争議があり、農村でも小作争議が頻発していたはずである。そう考えてみると、この映画と『むらぎも』を足してみると、見えてくることがいくつかありそうである。映画の中で女性と結婚生活、伝統と新しい生き方についてのやり取りがあるが、『むらぎも』の中で中野の分身である片口安吉が友人の平井(後に東京教育大学でフランス語を教えた中平解がモデルであると、なにかで読んだ記憶がある)と天皇制や家族制度について会話を交わす場面があるし、野上弥生子は夏目漱石の門下といってよいのだが、『むらぎも』には漱石門下の芥川龍之介をモデルとする葛飾伸太郎という作家が登場して安吉に新しい思想をもった人間の文学が待望されている一方で、「人は持って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう」(講談社文芸文庫版、350ページ)という場面がある。文壇にも新しい動きが感知されはじめてきた時代である。

 湯浅芳子によるチェーホフの翻訳は高校・大学時代にずいぶん読んだ記憶がある。同じ時期、神西清の翻訳も読まれていたが、湯浅が神西の翻訳を直接にその名を挙げずに、批判していたことを思い出す。どちらの翻訳がすぐれているのかを判断するほど、こちらはロシア語ができないのだが、ちょっと意固地になった批判の仕方がいかにも湯浅らしい(『百合子、ダスヴィダーニヤ』の資料には記されていないが、湯浅の人となりについては瀬戸内寂聴が詳しく書いていた)。中條(宮本)百合子については、1951年に世を去っているので、学生時代の私から見ても、過去の人という印象があったが、戦後の作品、「播州平野」などは読んでいる。映画では可愛いけれども、おっちょこちょいな感じに描かれているが、戦後に百合子と接触した本多秋五の印象などを読んだかぎりでは、かなり政治力のある女性という感じがしていたので、多少の違和感をもった。あるいは宮本顕治との結婚や、戦争中の経験によって逞しく変貌したという部分があるのかもしれない。それよりも何よりも、野上弥生子の長男である野上素一の講義を聴講したことがあった。映画の中で、弥生子と百合子がアベラールとエロイーズの恋愛の話から、男性の女性観をめぐって議論を交わす場面があるが、野上素一の講義の中で、ベル・エポック時代のイタリアの男性が女性をめぐって決闘を行うことがしばしばあり、それを知った女性がすぐに目を回すという話を聞いたことを思い出す。母親の思想や問題感覚を息子は必ずしも継承していないという話だが、野上のかなり豊かな暮らしぶりが無批判に描かれていることも注目しておいてよいのかもしれない。

 百合子が動揺を続けるのに対し、芳子はあまり動かない。動と静という演出上の対比がある。芳子はずっと着物姿を通しており、百合子は和装と洋装を使い分けている。服装に2人の経済的な背景の違いが示されているわけであるが、その一方で、2人が原稿や手紙を書くときには万年筆を使っていることが共通している。そこに新しさがあるわけである。万年筆ということで思い出したのだが、この作品には「カメラ=万年筆」論を唱えたアレクサンドル・アストリュックの作品を思わせるところがある。心理的な描写に重点を置いているところとか、その一方、時々即興的な演出がみられるところなどである。伝統的な社会の抑圧の中で、あたらしい生き方を求めて、文学の道を歩もうとした2人の女性のぶつかり合いを描くというこの主題をこのような手法で描くことには、多少の疑問があり、もっと本格的に予算を掛けてロシアへのロケも行ったりして、取り組んでほしかったという印象がなくもない。

 だから、日本の文学史、思想史を考えるうえで興味深いエピソードに取り組んでいるという意味で、興味深い映画ではあったのだが、主題にふさわしい重厚感をもちえなかったことが減点材料になる、本格的な作品というよりも習作にとどまっているというのがだいたいの感想である。吉岡しげ美が担当した音楽がよく、CD化もされているとのことで、興味のある方は探してみてください。
 
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