『太平記』(86)

1月16日(土)晴れ

 元弘3年(1333年)5月18日、新田義貞の率いる討幕軍は極楽寺坂、小袋坂、化粧(けわい)坂の3方から鎌倉への攻撃を開始した。洲崎を守っていた北条(赤橋)盛時は、自分の妹が足利高氏の妻であることから、幕府の中枢により内通の嫌疑をかけられているのではないかと思い巡らし、勇士として身の明かしを立てようと自害してしまう。北条(大仏)貞直が守る極楽寺坂方面では苦戦した義貞は、21日早朝に大潮で稲村ケ崎の海岸が干上がったのを利用して鎌倉市中に攻め寄せ、北条勢を壊滅させた。北条高時と長崎円喜が最後の入り札として送り出した島津四郎は、新田勢に降伏してしまい、これを機に北条方から裏切るものが続出する。

 新田勢は由比ガ浜に面した民家、初瀬から由比ヶ浜にそそぐ稲瀬川の東西に火を懸けたので、ちょうど浜風が激しく吹いて来たのに煽られ、車の輪のような炎が、黒い煙を上げながら燃え盛り、どんどん燃え広がっていったので、その中に新田勢の兵士たちが乱入し、逃げ場を失った幕府方の兵たちをここかしこに射伏せ、切り伏せただけでなく、煙の中に逃げ惑う女性や子どもたちが火の中、煙の中に倒れ込む有様は、阿修羅の従者どもが帝釈天との戦いに負けて罰せられて火炎と剣戟のもとに伏し倒れ、地獄の罪人たちが牛頭馬頭の鬼たちに責めさいなまれて、煮えたぎる溶けた鉄の湯に落ち込んでいくというのもこのようなさまであるのかと思い知らされるのであった。京都における戦闘でも同様であったが、戦闘とは関係がないのに、住まいに放火された庶民たちはいい迷惑である。

 放火されたのは由比ガ浜の一帯であったが、その煙が西から東に流れて、相模入道(北条高時)の居館の近くにも押し寄せてきた。高時は一千余騎の武士たちを連れて、居館(現在、宝戒寺のある場所)を出て、その東南の葛西谷(かさいのやつ=現在の鎌倉市小町)にある東勝寺に引きこもった。これは北条泰時が建立した臨済宗の寺で、北条氏の菩提寺であった。父祖代々の墳墓の地なので、兵士たちに防ぎ矢を射させて、その間に心静かに自害しようというのである。説明し忘れていたが、「谷(やつ)」というのは谷あいの地をいう。鎌倉と房総地方の方言で、横浜や東京では「保土ヶ谷」とか「渋谷」というように「や」という言い方をする(まったくついでの話だが、神奈川県にも渋谷という地名はある)。

 北条得宗家の執事を務めている長崎円喜の叔父である長崎左衛門入道とその子息の勘解由左衛門為基の2人は極楽寺切通方面の敵を防ごうと必死で戦っていたが、敵の軍勢が既に小町口に達して、北条高時の居館も放火されたとの情報が入ってきたので、引き連れていた2,000余騎を戦場に残し、手勢600余騎を率いて小町口へと向かった。新田勢はこれを見て、包囲して討ち取ろうとしたが、長崎父子は自在に駆け回って新田勢を翻弄し、数万を数える兵たちがこの小勢のために若宮小路へと押し戻される。

 そうこうするうちに化粧坂南の佐介の天狗堂と、北の扇谷(おうぎがやつ)のあたりに馬の蹴立てる土煙が見えて、敵の軍勢が迫っているようなので、長崎父子は、左右に分かれてそれぞれの敵と対戦しようとする。子息の為基はこれが最後だと思ったので、父の方を名残惜しげに見ていたが、父親の左衛門入道は、おまえも私も今日のうちに戦死することは明らかであり、明日は冥途で再会することになるだろうから、名残惜しいことはないと息子を励ました。為基は涙を抑えて、大軍の中に切り込んだ。従う兵はわずか十余騎であったので、新田勢は取り囲んで討ち取ろうとした。

 為基が佩いている太刀は京都粟田口の名工来太郎が丹精をこめて作り上げた名刀なので、新田勢の武士たちの鎧兜を切り裂いて恐るべき威力を発揮し、新田方の兵たちは恐れて近づこうとしなくなった。ただ遠巻きにして矢を射掛けるだけである。こうして為基が乗っている馬に矢が7本も刺さったので、為基は馬を乗り捨て、しかるべき相手を見つけて組み付こうと由比ガ浜に立っていた鶴岡八幡宮の大鳥居の前にただ一人、くだんの名刀を杖にして仁王立ちで待ち受けていた。新田勢はこれを見て、近づこうとはせずに、なおも遠矢を射掛けていた。それで、為基は負傷したように見せかけようと膝をついて倒れかけたところ、50騎ほどの武士たちが首を取ろうと押しかけてきた。「為基、かっぱと起きて、『何者ぞ、人の軍(いくさ)に疲れて昼寝したるを驚かすは。いで、己れらが欲しがる首取らせん』」(第2分冊、135ページ)と大声を上げて、太刀を打ち振って近づいてきた武士たちに迫ったので、武士たちは慌てて大急ぎで逃げ出したのであった。

 為基はさらに敵の背後に回りこんだり、取って返したりして縦横に戦っていたが、そのうちどこかで戦死したのであろうか、行方が分からなくなった。

 新田軍が鎌倉市中に入って、勝敗は決したかに見えるのだが、『太平記』の作者は先を急がずに、北条方の武士たちの最後の奮戦の様子を描き続ける。長崎為基の戦いぶりなど、いかにも軍記物語という語り方であるが、もっと別の時とところで発揮された方がよかったような勇戦ぶりであるとも思われる。これに対する新田勢の武士たちの腰の抜けた対応ぶりも興味深く、『太平記』が従来の軍記物語とは一味も二味も違った文学作品であることがよく示されている。
 私は子どものころから何度も鎌倉に出かけてきたし、学生時代を京都で過ごしたので、普通の人よりもこの2つの都市については経験を積んでいると思うのだが、鎌倉は京都に比べるといかにも狭い。その狭さが、北条氏滅亡に至るこの箇所を読んでいると改めて実感されるのである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

No title

こんにちわ!

長崎円喜というと、どうしてもフランキー堺氏の顔が
頭に浮かんでくるのです。
NHK大河ドラマ「太平記」。
あの頃の大河はおもしろかったなあ(遠い目)。

Re: No title

コメントをありがとうございました。

今回、登場しているのは長崎円喜ではなくて、その叔父の思元(三郎左衛門入道)と、思元の子どもの為基で、円喜が最期を遂げるのは、『太平記』第10巻の最後の方です。第10巻を通じて、北条得宗家の執事(家老)である長崎一族の最後の奮戦が目立つ中で、円喜は高齢のためでしょうか、あまりぱっとしません。

大河ドラマはあまり見ないのですが、フランキー堺は好きな俳優で、たぶん、出演した映画を一番多くみている俳優さんです。特に若いころの、何をやりだすかわからないような演技が好きです。川島雄三監督とのコンビ、川島監督、森繁とのトリオ、いずれも傑作ぞろいです。森繁とは、いわば喜劇の慶早戦になるので、余計に面白く感じられます。豊田四郎、中平康、瀬川昌治などその他の監督の作品でも大いに活躍していて、好きな喜劇人です。

> こんにちわ!
>
> 長崎円喜というと、どうしてもフランキー堺氏の顔が
> 頭に浮かんでくるのです。
> NHK大河ドラマ「太平記」。
> あの頃の大河はおもしろかったなあ(遠い目)。
プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR