『太平記』(85)

1月10日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)5月8日に、倒幕の意思を固めていた上野の武将・新田義貞は生品明神で挙兵した。まもなく越後の新田一族がはせ参じ、翌9日、足利千寿王が200余騎で合流すると、関東一円の武士たちが馳せ加わった。新田の討伐に向かった幕府軍が、小手指河原・久米川の合戦で敗れると、北条高時の弟の泰家が大軍を率いて加勢に向かい、15日、分陪河原での緒戦に勝利したが、三浦大田和義勝率いる相模勢が新田軍に合流すると、翌日の合戦では大敗した。鎌倉に迫った新田軍は、18日、極楽寺坂、小袋坂、化粧(けわい)坂の三方から攻撃を開始した。幕府最後の執権、北条(赤橋)盛時は、自分の妹が嫁している足利高氏が幕府を裏切って後醍醐天皇方につき、六波羅を攻め落としたことに自責の念を感じ、洲崎の陣で自害した。このため、洲崎方面を守っていた幕府軍が壊滅し、18日の夜には新田軍は山内にまで攻め入った。新田軍は極楽寺坂方面で盛んに攻勢をかけたが、幕府方も必死に守り、新田方の大将である大館次郎宗氏が戦死し、軍勢も肩(片)瀬、腰越まで退却を余儀なくされた。
 この知らせを聞いて、5月21日の夜に義貞は2万余騎の兵を率いて、肩瀬、腰越方面の様子を探ったが、幕府方の守りは固く、しかも陸上だけでなく、海上にも軍船を並べて波打ち際を攻め寄せようとする兵力を狙って一斉に矢を射かけようとしている。「げにもこの陣の合戦に、寄手叶はで引きけるは理(ことわ)りなりとぞ見給ひける」(第2分冊、128ページ、まさしくこの陣の合戦で、攻撃側が劣勢になって退却したのは当然のことだとご覧になったことである)。

 義貞は、馬から降りて、兜を脱いで、海上の方角を伏し拝み、竜神に向かって誓いを立てるお祈りをされた。「伝え聞くところによると、日本の国土の創造の主である天照大神は神の本体を大日如来のお姿の中に隠し、変化身を青海原の龍神と現じられた。大神の子孫であられる後醍醐天皇が逆臣北条氏によって隠岐に流刑にされるという憂き目に遭われている。義貞は今、臣下としての道を尽くすために逆賊である北条氏と戦おうとしている。その志はひとえに王の徳化(政道)をお助け申し上げて、蒼生(人民)を平安ならしめるためである。(以下原文のまま) 仰ぎ願はくは、内海外海の龍神八部、臣の忠誠を鑑みて、朝敵を万里の際に退け、道を三軍の陣に開かしめ給へ」(第2分冊、128-129ページ)と心を込めて祈り、自分が佩用していた金細工で飾った太刀を外して、海中に投じられた。

 この祈りを龍神八部も聞き届けたのであろうか、その日の月の入りの刻限にこれまで決して干上がることのなかった稲村ケ崎の海岸が20余町(2キロ以上)干上がり、「平沙まさに渺々たり」(第2分冊、129ページ、平らな砂浜がはるばると広がった)。沖合から矢を射かけようと待機していた多数の軍船もはるか彼方に流されて海上をさまよっている有様である。
 義貞は漢の将軍李広利が刀で山を刺すと、飛泉が湧出した例、神功皇后が新羅を攻められた時に、干珠を海に投げ入れる利雄が引いた例を挙げて、これは戦いに勝つ前兆であると士卒を励ました。そこで、新田一族の江田、大館、里見、鳥山の人々をはじめとして、越後、上野、武蔵、相模の軍勢が一緒になって、稲村ケ崎の遠くまで広がった干潟を一文字に駆け抜け、鎌倉中に乱入した。極楽寺坂を守っていた幕府軍は敵が背後に回ったのを知って、慌てふためき、混乱するばかりである。

 幕府方の武士で島津四郎というものがいたが、彼は大力の評判高く、外見も武技の能力も優れているとの評判が高く、幕府の一大事の時に頼りにすべき人物であると大事にされてきて、北条高時の内管領である長崎円喜が元服の名付け親になり、一人で千人にあたる勇士と頼りにされ、鎌倉を防衛している七口の前線に出さずに、最後の切り札として高時の身近に配置されていた。
 稲村ケ崎が突破されて、新田軍がいよいよ若宮小路まで攻め込んできたと騒がしくなってきたので、高時は島津四郎を呼んで、自ら酒を注いで進め、3杯ほど飲んだところで、厩に置かれていた坂東一といわれる比類のない名馬があるのに、銀で縁飾りをした鞍を置かせて、島津四郎の乗馬として与えた。周囲の人々はこれを見て羨まぬ者はいなかった。
 高時の邸の門前から、この馬に乗って、由比ガ浜の潮風に大きな笠符を吹き流させ、周囲を威圧して同道と向かってきたので、数万の軍勢はこれを見て、噂通り一騎当千の武士であると思うのであった。これまで、長崎円喜が彼を勝手気ままにふるまわせてきたのも、この時のためであったのかと誰もが思ったほどの武者ぶりである。

 新田勢の武士たちは、これを見て、よい敵に出会ったと思ったので、栗生(群馬県桐生市)、篠塚(邑楽=おうら郡邑楽町)の武士たち、それに畑六郎左衛門などの剛勇の武士たちが、自分こそ先に勝負しようと馬を進めて近づいていった。両軍の大力で名高い武士が、余人を交えず、勝負を決しようとするのを見て、敵味方の軍兵、かたずを飲んで見守る中で、島津は近くまで寄るには寄ったが、馬から降りて、兜を脱ぎ、新田勢に降参して、幕府攻撃軍に加わることを申し出た。「貴賤上下これを見て、悪(にく)まぬものはなかりけり」(第2分冊、131ページ)と『太平記』の作者は記している。

 これを降参するものの初めとして、長年北条氏の重恩を受けた家来たち、あるいは代々仕えてきた家来たちが、親を離れ、主人を捨てて、新田軍に降参し、幕府攻撃に加わったので、両者の力関係はもはやこれまでというところまで決定的な違いを見せるに至った。

 小学唱歌「鎌倉」は、芳賀矢一(1867-1927)の作詞によるものであるが、その第1番で「七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎名将の 剣投ぜし古戦場」と歌う。『私本太平記』で吉川英治が書いているように、太刀を海中に投げ入れたというのは、『太平記』の作者の創作であり、むしろこの日が大潮であったことを義貞が見抜いたことこそ、高く評価すべきであろう(義貞がこのことを近くの漁師から聞いたのか、暦法の知識があったのかには、想像力を働かせる余地がある)。義貞が龍神に向けて祈る言葉は、中世人である『太平記』の作者のものの考え方をよく反映したものとして、特に<中世神話>との関連で興味深い。
 天照大神⇔大日如来という組み合わせは、八幡神⇔阿弥陀仏という組み合わせと対比して考えるべきであろう。巨大な阿弥陀像である鎌倉の大仏の近くの稲村ケ崎から侵入した新田軍が、鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至る若宮小路に迫ったというのには、現実的な意味以上の象徴的な意味があったと考えるべきではないか。

 『保元物語』の源(鎮西八郎)為朝、『平治物語』の源(悪源太)義平、『平家物語』の平(能登の守)教経というように軍記物語には、この人物の活躍で形勢が逆転するのではないかという剛勇の人物を敗者の側に配している例が続いてきた。『太平記』の島津四郎は北条一族ではないし、これまで作品中で活躍したわけでもないので、逆転のヒーローとしての活躍を期待するのは土台無理なのである。高時から大いに期待されながら、いともあっさり高時を裏切ってしまう。こういう人物が登場してくるところに『太平記』の新しさがあるわけであるが、それが歓迎すべき質の「新しさ」であるかどうかは、読者の判断にゆだねられる。
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