新年雑感二題

1月2日(土)晴れ、午前中は雲が多かったが、次第に晴れ間が広がる。温暖。

 ニッパツ三ツ沢球技場に全国高校サッカー選手権の2回戦を見に出かける。昨年末の混雑を思い出し、また体調も万全とはいえないので、どうしようか迷ったのだが、出かけてみたら、入場者は少なく、拍子抜けした。神奈川県代表の桐光学園高校の試合が川崎市の等々力競技場で行われていたので、そちらの方に大部分の客足が向かったらしい。とすると、明日の3回戦(桐光学園は2回戦を勝ち抜いた)では、三ツ沢はまた大混雑になりそうである。帰りがけに、公園入口の陸橋付近から富士山のシルエットがかすかに見えた。

 昨年の12月24日の当ブログの記事「マーカス・デュ・ソートイ『数字の世界のミステリー』」の二番煎じになるが、今年は西暦2016年、平成28年で
 28=2³⁻¹(2³-1)=4×7
 2016=2⁶⁻¹(2⁶-1)=32×63
である。2ⁿ⁻¹(2ⁿ-1)はnが素数の時に完全数(その数を除く、約数の和がその数と同じになるような数、例えば6=1+2+3、28=1+2+4+7+14)となる(n=2の時に6、N=3の時に28)。6は素数ではないので、2016は完全数ではない。とはいうものの、28と2016には他にも結びつきがある。

 そもそも 28=2²×7
 2016=2⁵×3²×7 と素因数分解できるから、28が2016の約数であることが分かる。
 このように、西暦の年数が、対応する年号の年数で割り切れるのは、平成に入ってから2年(1990÷2=995)、4年(1992÷4=498)、7年(1995÷7=285)、14年(2002÷14=143)と4回あり、今回が5回目である。これは昭和の5年(1930÷5=386)、7年(1932÷7=276)、11年(1936÷11≂176)、25年(1950÷25=78)、35年(1960÷35=56)、55年(1980÷55=36)に次ぐ記録で、ここまでのペースは昭和よりも早いのであるが、この次は平成71年(2059÷71=29)ということになるので、おそらくは昭和を抜くことはできないだろう。

 西暦と年号の対応関係を知るには、西暦から明治は1867、大正は1911、昭和は1925、平成は1988をひけばよいのだが、1867は素数であり、1911=3×7²×13、1925=5²×7×11、1988=2²×7×71と素因数分解できる。したがって、それぞれの数字の約数を年数とする年は、西暦が年号の数で割り切れることになるのである。大正については、3年、7年、11年で計算して試してみてください。なお、来年は平成29年、2017年になるはずであるが、29も2017も素数であって、こういう組み合わせが明治以降、いくつあるかは、来年の楽しみにとっておくことにする。

 さて、江戸時代の学者である伊藤東涯の『制度通』は、太古から江戸時代の初めごろまでの中国と日本のさまざまな制度について比較・考証した書物で、歴史について考えるときに参考になる点が少なくない。東涯は仁斎の長男で、その学問を継承する一方、このような歴史研究に励んだ。以前、『福翁自伝』について紹介した際にも触れたが、福沢諭吉の父・百助が最も尊敬していた学者である。『制度通』の巻一が「元年改元のこと」であり、年号に関連する事柄が記されている。要点を抜き出して記すと次のようになる。

 中国の周の時代には、天子・諸侯が即位した年を元年といった。「元」とは「はじめ」という意味である。その前の天子・諸侯が崩御・薨去した次の年が元年となる。
 天子・諸侯の在位中は元年・二年・三年と数えていたのが、春秋時代の秦の恵文王の時に、年号は立てないが、元年をやり直すということが行われた。漢の文帝の十七年になって吉祥がみられたので、あらためて後元年ということにした。天子の在位中に元年を改めたのはこれが最初である。さらに武帝が即位したときにはじめて建元という年号を建てた。
 大昔は年号はなかったのだから、使わない方が聖人の道に適うと論じる人がいるが、『朱子語類』ではこの考えを退けている。後の時代になってから導入されたものであっても、それが人々の暮らしを便利にするものであれば、使うべきだというのであって、これはもっともな考えである。
 日本では天皇の即位、祥瑞、災変、および革令・革命の時には改元が行われてきた。
 もともと日本では神武天皇元年辛酉の年以来、年号はなかったが、孝徳天皇元年乙巳の年を大化元年と号したことから年号が始まり、その後、年号が定められたり、定められなかったりしたが、文武天皇五年辛丑の年に大宝という年号を定めた。「これより以後、歴代相続して、即位並びに祥瑞・災変には必ず改めらるるなり。大抵、中国の外、古今相伝して年号を建つる国は、史伝の間、かつて見あたらず。南詔国・安南国、少々年号あれども、数百年相続して年を紀することなし」(平凡社東洋文庫版『制度通1』17ページ)。「南詔国」というのは唐代にインドシナ半島にあった国で、大理国に滅ぼされた。「安南国」は元ヴェトナムの中部にあった王国である。
 日本では辛酉・甲子の年には必ず改元を行ってきた。これは『易』に基づくもので、中国ではこのようなことはない。
 中国の宋・元の時代の年号の制度は、漢や唐のものを踏襲していた。
 明の時代になって一帝一号という制度が設けられ、清の時代になってもこれが続いているようであるが、「書籍未だ伝わらざれば、詳らかなることはしりがたし」(同上、19ページ)。

 東涯ははっきりと述べてはいないのだが、日本では中国のように「踰年改元(年を踰えて改元す)」ではなくて、年のうちであっても改元をする。そこが大きな違いである。現在の日本の年号をめぐる制度は、東涯がまだはっきりとしたことが分からないと述べている明以後の中国の制度に倣っているところが多いので、彼の議論は全面的に役立つわけではない。また彼が歴史的な事実だと考えていたことが、現在の歴史学研究ではそうではないとされているところが少なくないのであるが、そういう制約を視野に入れても、この記述は年号というものについて考える際の手助けにはなるだろう。それに彼が、はっきりしたことがわからないことには、そのように書き記している姿勢には大いに見習うべきものがあるのではないかと思うのである。

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