『太平記』(83)

12月29日(火)晴れ

 上野の国の豪族新田義貞は、八幡太郎義家に連なる名門の当主であったが、鎌倉幕府によって冷遇されていた。とはいうものの、その一族は北関東から越後・信濃へと勢力を拡大していた。元弘3年(1333年)3月に幕府の命によって金剛山を包囲していた義貞は倒幕の意思を明らかにして、朝敵追討の綸旨を得(本来、綸旨は天皇が発行するものであるが、護良親王が発行しているというところに手続き上の問題がある)、病気と偽って戦線を離脱して上野の国に帰り、倒幕の準備を進めていたが、おりしも兵糧徴発のために新田庄に入った幕府の使者の強引なやり方に腹を立てて彼らを斬り、幕府が追討の軍勢を派遣するという情報を得て、かくなるうえはと5月8日に生品明神で倒幕の兵を挙げる。

 間もなく越後をはじめとして近隣各地の新田一族が駆けつけ、5月9日には鎌倉を脱出した足利千寿王(高氏の子で、後に義詮)が200余騎で合流すると、関東一円の武士たちが合流を始めた。足利氏も新田氏と同じく、八幡太郎義家の子孫であったが、下野を本拠地として勢力を拡大し、源氏の名門として鎌倉幕府からも重んじられる家柄であったのである。鎌倉幕府は新田勢の討伐に桜田貞国を大手の大将として6万余騎を率いて、鎌倉道の上道を進ませ、金沢貞將を搦手の大将として5万余騎を率いて江戸湾沿いに北上させた。5月11日、小手指原の合戦の後、5月12日の久米川の合戦で新田軍が勝利し、これを聞いた鎌倉幕府は得宗である北条高時の弟の泰家を大将として大軍を派遣し、5月15日の分陪河原での合戦では北条軍が勝利した。しかし、三浦大多和義勝の率いる相模勢が新田軍に加わると、緒戦の勝利に油断した北条軍は壊滅的な大敗を喫して、鎌倉へと敗走することになる。関東一円の武士たちは先を競って義貞の軍勢に参集し、その数は80万余騎に達する。

 鎌倉に迫った義貞はその大軍を3つに分けて、一族の武将2人ずつをそれぞれの部隊の指揮官として割り当てた。西南の方角から鎌倉に向かう極楽寺の切通しには大館宗氏と江田行義の率いる10万余騎、西北から円覚寺、建長寺の近くを通って、鶴岡八幡宮の方に向かう小袋(=巨福呂、こぶくろ)坂には堀口真満、大島讃岐守の率いる7万余騎、そして佐介谷から寿福寺の方角に向かう気和井(=化粧、けわい)坂には義貞とその弟の脇屋義助の率いる新田一族の大井田、山名、桃井(もものい)、岩松、里見、額田、一井(いちのい)、羽川(はねかわ)の郎等たちを中心とする60万余騎が攻め寄せた。

 三方を山に囲まれ、残る一方は海に面している鎌倉は、攻めるのが難しく、守るのに容易な要害の地である。名越、朝比奈、巨福呂(こぶくろ)、亀ヶ谷、化粧(けわい)、大仏、極楽寺を「鎌倉七口」というのは江戸時代になってからの数合わせであるが、河野眞知郎さんが『中世都市鎌倉』(講談社選書メチエ)で論じているように、これらが鎌倉への主要な通路であったことは間違いない。新田軍はもっぱら西側から鎌倉を攻めているが、東の方の名越、朝比奈切通しから攻め込むという選択肢もあったはずで、実際にこの後の戦史をみていくと朝比奈切通しから鎌倉に攻め込んだ例もある。あるいは、実際にはこの経路からの攻撃もあったが、『太平記』の作者が書き落としたという可能性も考えられる。

 鎌倉の人々は関東においてさえも、人心が幕府から離れ、新田義貞の軍勢に多くの武士たちが加わっていることが予期できなかったが、北条泰家と金沢貞將の大手・搦手の討伐軍が惨敗を喫して敗走してきた姿を見て、あらためて事の重大さに気付いたのである。それだけでなく、鎌倉を取り巻く近隣の地で、攻め寄せてきた討幕軍が火を放って、その騒ぎが鎌倉にも伝わり、人々は慌てふためいた。

 新田軍が3方から攻めてきたので、幕府軍も兵力を3分して対処することになる。気和井坂方面を守るのは金沢有時を大将軍とする安房、上総、下野の武士たち3万余騎である。極楽寺の切通しを防ぐのは、大仏貞直を大将とする、甲斐、信濃、伊豆、駿河の武士たち5万余騎である。小袋坂に迫って来た軍勢に立ち向かうのは幕府の執権・赤橋盛時を大将とする、武蔵、相模、出羽、奥州の武士たち6万余騎である。それぞれ大将は北条一門の武士たちであり、赤橋盛時は、足利高氏の正妻である登子の兄でもあった。このことが、この後の戦局に影響を与えることになる。さらに鎌倉の市中にはまだ10万余騎の武士たちが、状況に応じて劣勢に陥った方面に援軍に向けるために残されていた。

 5月18日の巳の刻(午前10時ごろ)に両軍は合戦の初めに行う矢合わせの行事を行い、終日終夜の激戦が展開された。新田勢は数において勝り、最前線で攻撃する武士たちを次々と入れ替えて戦線を突破しようとし、幕府方は数において劣るとはいうものの、防御の重要地を占めていたので、それを利用して巧みに防御する。それぞれの軍勢があげる鬨の声と、両陣営が戦いの中で叫ぶ声が天を響かせ、地を揺るがす。幕府軍が魚鱗の陣形で固まって大軍の中に突入すれば、新田軍は鶴翼の陣形でこれを包み込み圧倒しようとする。新田勢が抜刀して攻撃に懸かれば、幕府軍は一斉に矢を放つ。それぞれが決死の覚悟で戦い、なかなか勝敗は決しない。

 歴史的な鎌倉と、現在の鎌倉市は同じものではない。ここに描かれている戦闘は、歴史的な鎌倉をめぐる攻防であって、新田軍はすでに現在の鎌倉市内に入り込んでいる。歴史的な鎌倉は現在の鎌倉市よりも狭い地域であったが、もっと多くの人々が住んでいたようである。とはいうものの、『太平記』に記された軍勢の数は両軍合わせて100万を越え、現在の鎌倉市の人口を考えると、誇張されているように思えてならない。もっとも休日に鎌倉の小町通あたりを歩いていると、その人通りの多さに圧倒されてしまう。そういえば、間もなく新しい年を迎えることになるが、鎌倉の寺社に初もうでする人々の数はどのくらいになるのだろうか。
 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR