偉大なるアンバーソン家の人々

12月25日(金)晴れ後曇り後雨

 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作14」の特集上映の中から、アルフレッド・ヒッチコックの英国時代最後の作品である『岩窟の野獣』(Jamaica Inn, 1939)とオーソン・ウェルズが『市民ケーン』に続いて作った映画である『偉大なるアンバーソン家の人々』(The Magnificent Ambersons, 1942)の2本を見た。今年は、昨年に比べてあまり映画を見ていないのだが、その中でオーソン・ウェルズの作品を『上海から来た女』と『偉大なるアンバーソン家の人々』の2本も見ることができたのは、彼の生誕100年、没後30年という節目の年にふさわしいことではないかと思う。

 『偉大なるアンバーソン家の人々』は、1918年に発表されたブース・ターキントンの同名小説に基づいてウェルズが脚本を書き、監督したものであるが、前作『市民ケーン』の興行成績が不振であったために、ウェルズの発言力が低下し、40分余りもフィルムが切り縮められ、ラストも変えられたという。『市民ケーン』と違って、物語は時間の流れに沿って展開し、アメリカのおそらくは中西部の地方都市の古き良き昔を多少のユーモアを交えて説明的に描く導入部など、作者の観客に対する配慮がうかがわれる一方で、特に後半になると、物語の運びが粗く不自然に感じられるようになるのは、製作をめぐるこのような事情からであろう。

 19世紀の後半、ある地方都市で一番の名族であるアンバーソン家の令嬢イザベル(ドロレス・コステロ)の恋人であったユージン(ジョセフ・コットン)が彼女の邸宅の前でセレナーデを演奏しようとして、泥酔していたために、ころんで楽器を壊すという失態を演じ、彼女の不興を買う。そのため、彼女は別のもっと平凡な男と結婚してしまう。イザベルとその夫との間に生まれた一人息子のジョージは、とんでもない我儘息子になって、町の人々から憎まれる。

 さて、その息子ジョージ(ティム・ホルト)が成人して、アンバーソン家では彼の帰省を祝う舞踏会が開かれる。その席に、ユージンがその娘ルーシー(アン・バクスター、若い!!)を連れて出席する。イザベルに失恋して町を離れていた彼は、その後発明家として自動車の開発にかかわっており、その事業を拡大しているところである。ジョージとルーシーは惹かれあうが、ルーシーはジョージの鼻持ちならない部分が我慢できず、彼の求婚に応じようとしない。ジョージの母のイザベルが、ルーシーの父であるユージンの求愛を退けたのは、名門の令嬢としての誇りのなせるわざであったが、ルーシーはジョージが就職せずに社会事業に献身する(実はアンバーソン家にはそんなことをする経済的な余裕はなくなってきている)というような名門意識が気に入らないようなのである。ところが、息子と娘だけでなく、イザベルも、非社交的な夫に飽き足らず、昔の恋人であるユージンへの恋心を復活させているようなのである。(ルーシーは、イザベルが父の昔の恋人であったことを素直に認め、特に問題視しないのに対し、ジョージは2人の関係をスキャンダルだと思って、なんとか終わらせようとする。) これらの人間関係にイザベルの夫の妹で、ジョージにとっては叔母であるファニー(アグネス・ムーアヘッド)が絡む。その一方でアンバーソン家の経済状態も、イザベルの健康も次第に悪化していく…

 トーマス・マンの『ブッデンブローク』のようにある都市の名門の没落を、周囲の環境の近代化と絡めて描く物語は少なくないが、ここでは新しい産業の発展と、都市そのものの発展がそれと対照的に描きだされていて、いかにもアメリカ的な作品になっている。最初期の自動車工場の様子が少しだけ描かれているとはいうものの、都市の発展が十分に映像的に描きだされているとは言えないのは残念であるが、アンバーソン家の豪壮な邸宅内での人間模様は丹念にまた演劇的に描かれている。特にファニーを演じているアグネス・ムーアヘッドの熱演が印象的である(アカデミー助演女優賞にノミネートされた)。ある年代以上の日本人にとっては、TVの『奥さまは魔女』のヒロインであるサマンサの母親エンドラ役でおなじみの女優であるが、オーソン・ウェルズの率いたマーキュリー劇団の一員で、『市民ケーン』ではケーンの母親の役を演じていた。(後、オーソン・ウェルズがロチェスターを演じた『ジェーン・エア』でジェーンのおばの役を演じていたのをご存知の方もいらっしゃると思う。) ジョージを演じているティム・ホルトはジョン・フォードの『駅馬車』を途中まで見送った騎兵将校の役で知られる俳優である。ルーシーを演じているアン・バクスターはこの映画撮影時にはまだ20歳になっていなかったから、若く見えるのは当然なのだが、その後1947年にアカデミー助演女優賞を受賞している。

 自分本位の思考と行動をどこまでも貫こうとするジョージは、にもかかわらず、どこか魅力的なところがある。このあたりは脚本・監督のオーソン・ウェルズの自画像的なところがあるのかもしれない。この作品はウェルズがつくった作品を大きく削って、つじつまが合わなくなった部分をジョセフ・コットンを始めとする何人かが脚本を新たに書いて、それをフレッド・フレックとロバート・ワイズ(編集を担当、後に監督として成功する)が演出した場面を付け加えて最終的な形をまとめたという話であり、詳しく分析していくと、さらに面白いことが分かるかもしれないなぁと思う。

 この作品は『市民ケーン』同様に、19世紀から20世紀にかけてのアメリカの発展の過程を社会の変化と個人の人生の軌跡を絡めて描きだそうとするもので、その意味でアメリカ市民としての作者の自画像的な意義をもっていると思われる。ウェルズとしては、できるだけ観客に分かりやすい映画を作ろうとした意図が感じられるのだが、それが必ずしも周囲に理解されなかったのは不幸なことであった。
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