『太平記』(82)

12月22日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)3月に新田義貞は朝敵追討の綸旨を得て、金剛山から上野国に帰って、挙兵の準備を進めていた。一方、足利高氏が宮方に寝返ったという知らせを受けて、鎌倉幕府は京都に大軍を派遣する計画を立て、その兵糧の確保のために関東地方の荘園から臨時の税を取り立てようとした。その使者が義貞の地元で税金を過酷に取り立てたので、義貞は怒って使者を斬り、5月8日に生品明神で倒幕の旗を挙げた。間もなく近隣の新田一族が集まり、翌9日には足利千寿王(後の義詮)が200余騎とともに合流すると、関東一円から一族以外の武士たちも馳せ加わった。
 新田の討伐に向かった幕府軍が、小手指原・粂川の合戦で敗れると、北条高時の弟泰家が大軍を率いて加勢に向かい、15日、分陪河原での緒戦に勝利した。ここで幕府軍が攻撃を続ければその後の展開は違ったかもしれないが、先行きを楽観して追撃しなかった。

 さて、相模の国の武士で三浦一族の大田和平六左衛門義勝は、以前から源氏に心を寄せていたので、相模の国の武士たち、大胡(群馬県前橋市北東部)、山上(やまのうえ、茨城県鹿嶋市)、江戸、豊島、松田(神奈川県足柄上郡松田町)、河村(同じく松田町)、土肥(とひ、足柄下郡湯河原町)、土屋(平塚市)、本間(厚木市)、渋谷(藤沢市)の一党を引き連れて、6千余騎で15日の早朝に、義貞軍の陣営に駆けつけた。義貞は大いに喜んで、すぐにそれぞれのものと対面して、合戦についてのそれぞれの意見を訊いた。
 大田和氏は横須賀市の大田和(現在では太田和と書く)を本貫とし、源頼朝が挙兵した際に衣笠城を守って討ち死にした三浦義明の三男義久を祖とする。ここで三浦一族の義勝が新田義貞のもとに駆けつけたことは、当然、三浦一族が頼朝挙兵の際に大いに活躍したことを踏まえて記述されていると思われる。江戸、豊島はともかく、大胡、山上は北関東の武士なので、相模の武士と一緒にされているのは、本文の混乱によるものかもしれない。土屋は三浦一族、土肥は源平の合戦で活躍した土肥実平の一族である。渋谷というと東京の渋谷を思い出すのだが、他にも同じ地名の場所があるようである。

 大田和義勝が畏まって言うのには、今、天下は2つ勢力に分かれてお互いの存亡をかけて戦っており、十度も二十度も合戦が続くことが予想される。とはいうものの「始終の落居は、天運の帰する所にて候へば、つひに泰平を致されんこと、何の疑ひか候ふべき」(第2分冊、114-115ページ、最終的な勝敗は天命により決まっていますので、ついには敵を平らげることは、全く疑いありません)といい、さらに続けて、自分たちの兵が加わっても義貞軍は10万余騎であり、幕府方の軍勢よりも少ないが、次の合戦で義貞軍が勝つことは予想の範囲内のことであるという。その理由は敵は緒戦に勝って油断しているからであると、秦末に挙兵して、秦の宰相李斯の子・李由の軍に勝利したことで驕り、秦の将軍章邯に滅ぼされた項梁(項羽の叔父)の例を挙げて説く。義勝は前日にひそかに部下のものに幕府軍の様子を探らせたが、勝利におごっている様子であったと付け加え、次の合戦には軍勢のどこかの方面の先鋒を務めて一合戦してみたいと申し出る。義貞は彼のいうところが一一もっともだと思ったので、翌日の戦いの手配を義勝に任せることにした。

 あくる5月16日の寅刻(午前4時ごろ)、三浦(大田和)は10万余騎の兵を前進させ、分陪河原へと向かわせた。敵の陣が近くなるまで、わざと旗の裾を解きのばさずに(旗をまいた状態で)、鬨の声も上げさせようとしなかった。これは幕府軍の意表をついて、一気に強襲をかけようという意図によるものである。
 予想通り、先日数度にわたって合戦を行ったことで人馬ともにつかれているうえに、まさかまたも敵が押し寄せてくるとは思っていなかったのであろうか、幕府方は馬に鞍も置かず、武具も身に着けず、遊女と共寝をしているものがいるかと思うと、前夜の飲み過ぎで眠り込んでいるものもいるという有様で、戦おうなどという態勢ではない。

 義貞軍が近づいてくるのを見て、河原に面したところに陣を張っている者たちが、西の方から旗をまいた大軍が、静に馬を歩ませて近づいてきていますが、もしかして敵かと思われます、準備を進めてくださいと連絡すると、大将たちは、思い当たることがある、三浦大田和が相模の国の武士たちを率いて、味方に駆けつけるという情報を得ているので、彼らがやってきたのであろう。さらに味方が加わるとはめでたいことだなどといって、驚きもしない。運が尽きるというのはこういうことで、全く嘆かわしいことである。

 そうこうしているうちに、義貞勢の10万余騎が三方から幕府軍に襲い掛かり、一斉に鬨を作る。幕府方はこの鬨の声に大ろいて、慌てて武装を整えようとするが、そこに大手から新田義貞、脇屋義助兄弟の兵が攻め込んで、幕府の兵を縦横無尽に討ち取っていく。大多和義勝は、豊島、葛西(東京都東部)、河越(埼玉県川越市)、鎌倉(鎌倉市、藤沢市に住んだ梶原、大庭氏など)、坂東の八平氏(上総・千葉・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の諸氏)、武蔵の七党(武蔵国に住した中小武士の連合体、丹・私市・児玉・猪俣・西・横山・村山)を率いて搦手から攻めかかり、あちこちを走り回って幕府軍を攪乱・蹂躙する。数十万を数え、義貞軍を上回るはずの幕府軍は壊滅状態になって鎌倉に引き返さざるを得なくなる。
 ここで、武士たちの名前が列挙されているが、かなり混乱があって、重複して名前を挙げられている例がある。このうち、鎌倉をはじめ、梶原、大庭、長尾などは神奈川県の地名にゆかりがある武士たちである。

 幕府軍の総大将である北条泰家も逃げていくうちに、関戸(東京都多摩市関戸)のあたりで命を落としそうになるが、家来の横溝八郎が自分の命を捨てて奮戦し、その他の家来たちも次々に主君を守るために引き返しては戦い、300人余りの者が命を捨てて、泰家の逃走を助けた。

 大将の1人であった長崎次郎は戦いで得た首を家来にもたせて鎧に突き刺さった矢をそのままにして鎌倉に戻り、北条高時のもとに駆けつけたが、これを見て祖父である長崎円喜がおまえはできの悪い孫だと思っていたが、よく戦ったとその武勇をほめたたえ、長崎次郎の方は目に涙を浮かべて感じ入るという場面もあった。とはいうものの、予期していなかったはずの敗戦に鎌倉の空気は一変したはずである。

 「源氏すでに数ヶ度の合戦に打ち勝ちぬと聞こえければ、東八ヶ国の武士、付き順(したが)ふ事雲霞の如し。関戸に一日逗留あつて着到をつけらる。八十万騎と注(しる)せり」(第2分冊、119ページ、義貞の軍はすでに数次の合戦に勝利したとの情報が伝わったので、関東8か国の武士で、帰順するものは雲霞のような数となった。関戸に一日逗留して、軍勢の来着を書き留めたが、その数は80万騎と記された)。

 北条一門は自分たちの本拠であるはずの関東地方の武士たちの離反に直面することとなった。これまで様子を見ていた多くの武士たちが討幕軍に参集したことで、いよいよ鎌倉幕府の命運は旦夕に迫ってきたようである。 
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