『太平記』(81)

12月17日(木)曇り、一時雨

 元弘3年(1333年)5月7日、鎌倉幕府に反旗を翻し、丹波の篠村で挙兵した足利高氏は京都に兵を進めた。京都の南に陣を構えて、六波羅の軍勢と何度も戦ってきた赤松円心、千種忠顕の軍勢もこれに呼応、幕府側は裏切りが相次いで六波羅を支え切れず、京都を脱出して関東で再起を図ろうとするが、執拗に襲い掛かる野伏たちに行く手を阻まれて進退に窮し、5月9日に近江国番場の宿で、六波羅北探題の北条仲時と、それに従ってきた432人の武士が腹を切った。六波羅探題一行とともに関東へ向かっていた主上(光厳天皇)、東宮(康仁親王)、両上皇(後伏見・花園上皇)は官軍に警護されて京都に戻った。

 足利高氏の三男である千寿王は、父親が上洛する際に、人質として鎌倉にとどめ置かれていたが、5月2日に脱出、このことから幕府では京都の情勢を不安視し、大軍を派遣しようと計画した。上野の国の武士である新田義貞は、3月に朝敵追討の綸旨を得て、上野に戻り挙兵の準備を進めていたが、幕府が兵糧徴発のために新田庄に使者を派遣したため、この使者を斬って5月8日に生品明神で旗揚げした。間もなく上野、越後など各地の新田一族が合流し、翌9日に、千寿王が200余騎とともに馳せ参じると、関東一円から武士たちが参集して、その軍勢は20万余騎に膨れ上がった。

 このような次第なので、各地から鎌倉に早馬が頻りに急を知らせてきた。これを聞いて、時代の変化に鈍感なものは、異国の軍勢が攻めてきたならともかく、国内の武士たちが幕府に反旗を翻すのは、身の程知らずも甚だしいと侮っていたが、少しでも物の道理のわかる人々はこれは大変なことになった、畿内だけでなく、幕府のおひざ元である関東地方でも反乱が起きたと、幕府の行く末を案じたのであった。

 幕府は5月9日に軍評定を行い、翌朝巳の刻(午前10時ごろ)北条一門の金沢貞将に5万余騎の兵を授け、下河辺(埼玉県北葛飾郡)に派遣した。これは上総、下総の兵を動員して、敵の背後を突こうとする戦略によるものであった。もう一方にはこれも北条一門の桜田貞国を大将として、北条氏の内管領である長崎高資の子の基資、長崎一族の泰光、それに武蔵の国の武士である加治次郎左衛門入道をつけ、武蔵、上野の兵たち6万余騎を率いて、鎌倉から関戸、府中などを通り、入間川に向かう鎌倉道を進ませた。これは大河を前に陣を構えて、敵が渡河してくるところを攻撃しようという作戦からであった。承久の変以来、関東地方では戦闘らしい戦闘というものは起きておらず、武士たちが武装して進軍するのは珍しい眺めであり、幕府方の武士たちは華美な装束を身につけていたので、余計に見栄えがした。

 それぞれの軍勢が途中1日の休息をとり、5月11日の辰の刻(午前8時ごろ)に武蔵の国の小手指原(埼玉県所沢市の西部)で両軍が遭遇した。幕府方の軍勢が新田勢を見ると、予想をはるかに上回る数十万の兵が集まっていて、恐れをなして足が止まってしまう。新田勢はどんどん入間川を渡り、鬨の声をあげ、兵を進めて、当時の合戦の習いとして、双方が鏑矢を射合う儀礼の矢を射、草しながら自分たちの軍勢の隊形を整えた。両者ともに小手調べの兵を出し、次第にその数を増して30度ほど戦闘を繰り返したが、それぞれ戦死者を出し、お互いに疲れてきたうえに、日も暮れかかったので、この日の戦闘を休止させた。

 新田勢は3里退却して入間川に陣を取り、北条勢も3里引いて久米川(東京都東村山市久米川町)に陣を構え、それぞれかがり火をたいて、夜が明けるのを今や遅しと待ち構えていた。

 夜が明けると新田勢は先手必勝とばかりに久米川へと押し寄せる。北条勢もこのことは予期していて、軍勢を展開して攻撃を仕掛け、敵軍を分断しようとするが、新田勢は軍勢を一つにまとめて、分断されまいとする。激しい戦いが続いたが、北条勢のほうが戦死者を多く出し、ついに分陪(ぶんばい、東京都府中市分梅町あたり、久米川の南)に退却した。

 新田勢は勢いに乗ってさらに攻め寄せようとしたが、連日の戦いで人馬の疲労がはなはだしく、いったん馬の足を休めようと、久米川に陣をとって夜明けを待つこととなった。

 新田討伐軍が苦戦しているという情報が鎌倉に伝わり、幕府は得宗である北条高時の弟の泰家を大将軍とし、20万余騎の援軍を派遣した。その軍勢が5月15日の夜半に分陪に到着したので、幕府方はまた力を得て、先に進もうとする。
 新田勢のほうでは、幕府が援軍を派遣してきたとは知らずに、夜が明ける前から攻撃を開始したが、北条勢は屈強の弓の名手をそろえて新田勢に矢を浴びせかけ、その攻撃の足を止めたうえで、左右から新田勢を挟み撃ちにして猛攻を仕掛けた。数的に劣勢になった新田勢は、これにひるまず、戦場を駆け巡って北条勢の攻撃に対抗したが、衆寡敵せず、20万余騎の大軍が6万余騎にまで減って(おそらくは戦死したものよりも、戦場を離脱したもののほうが多かったのではないか)、堀金(埼玉県狭山市堀兼)に退却した。

 「その日、やがて追つ掛けたりしかば、源氏は一人も残らず亡ぶべかりしを、今は何程の事かあるべき、定めて新田義貞をば武蔵、上野の者どもが討つてぞ出ださんずらんと、大様(おおよう)に憑(たの)みて時を移す。これぞ平家の運命の尽くる処のしるしなる」(第2分冊、113-114ページ、その日ただちに北条軍が追撃していれば、新田勢は一人も残らず滅びたはずなのに、今はもう恐れるほどのことはあるまい、新田義貞を武蔵、上野の武士たちが討伐するに違いないと、のんきにあてにして、時を過ごしてしまった。これが平家の運命が尽きる兆候であった)と『太平記』の作者は記す。

 幕府は自分たちの実力と、人気の両方をまだまだ過信している。新田義貞の率いる軍勢の多いこと(さらにはその戦いぶり)を見れば、彼らが東国の武士をさえ、統率できなくなっていることは明らかであるが、そのことに気付かない。高時の弟の泰家は出家していたのが、還俗してここで戦いに加わっている。彼はこの後も『太平記』に何度か登場し、かなり重要な役割を演じることになる。分陪河原の戦いに勝利した後、敵を追撃しなかったのが彼の判断によるものかどうかはわからないが、それほどすぐれた人物ではないまでも、兄の高時に比べれば分別があったのではないかと思われる。
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