『太平記』(80)

12月15日(火)曇り

 足利高氏の京都での謀叛の知らせが鎌倉に到来する前に、高氏の子千寿王(後の義詮)は鎌倉を脱出したが、兄の竹若は浮島が原で捕えられて斬られた。上野の武士である新田義貞は3月に朝敵追討の綸旨を得て金剛山から帰り、挙兵の準備を進めていたが、鎌倉幕府が京都に大軍を派遣するための兵糧徴発のために新田庄に使者を派遣して、厳しく取り立てを行おうとしたのに腹を立て、使者の1人を斬り、もう1人を生け捕りにしたので北条氏得宗である高時の怒りを買って、幕府の追討軍を向けられることになった。

 新田義貞とその弟の脇屋義助は、幕府が軍勢を差し向けるとのうわさを聞いて、一族の主だったものを集めてどのように対処すべきかとの表情を行った。集まった人々の意見が定まらない中で、義助はしばらく思案を凝らしていたが、「弓矢の道、死を軽くして名を重くするを以て、儀とせり」(第2分冊、103ページ、弓矢をとる武士の道は、死を軽くして主君の命令を重くするのを正しい振舞としている)として、これまで天下の武士たちは北条得宗の命令を重んじてきた。だから、どこで戦ったとしても、その命令を軽んじたということに変わりはなく、自分たちの運がなければ勝てないだろうし、人々の心がバラバラでは長く戦い続けることすらできない。他国に逃げても、幕府に反抗したことで悪い評判を立てられるだけである。我々が綸旨を得たのはそもそも何のためであったのだろうか。ここは運を天に任せて、幕府を相手に戦いを挑むべきであると説く。すると、そこに集まっていた一族の者達がみな賛同の意を表する。
 それでは、この計画が漏れないうちに打って出ようと、5月8日の午前6時ごろに生品大明神(群馬県太田市新田市野井町の生品神社)で旗を挙げ、宣旨を開いてこれを3度拝し、笠懸の野辺(みどり市笠懸町)へと打って出た。この時、彼らの軍勢はわずか150騎ほどであった。

 ところがその日の夕刻になると、利根川の方から、馬も武具も鮮やかに見える兵2,000余騎が、彼らの騎乗する馬の盛んな土煙とともに駆けつけてきた。敵かとみると、そうではなく、新田一族の、里見氏(群馬県高崎市里見に住む)、鳥山氏(太田市鳥山に住む)、田中氏(太田市新田田中に住む)、大井田氏(新潟県十日町市に住む)、羽川(栃木県小山市羽川に住む)の武士たちであった。
 義貞は大いに喜んで、進む馬をとめて次のように述べた。あらかじめ倒幕の企てはあったといっても、今日、明日とは思っていなかったのに、急に挙兵することになったという事情があって、お知らせする暇もなかったのに、どのようにし手御存じになったのであろうか。一族の大井田経隆が、馬の鞍にまたがったまま答えた。お知らせがなくては、知ることはないはずです。帝の仰せによって倒幕の大事業を決意されたことを、去る5日に使いのものだという山伏が1人、越後の国を1日中触れ回っていたので、こちらも昼夜兼行で駆けつけた次第です。もっと遠くにいる武士たちは明日にでも参集することになるでしょう。上野の国の外へ出陣されるおつもりであれば、さらに味方の兵が集まるのをお待ちください。それから、経隆をはじめとする武士たちは馬から降りて、挨拶を始めた。そうこうするうちに、後から続いてやってきた越後の武士たち、武田・小笠原・村上などの甲斐・信濃の源氏の武士たちが、それぞれの家の旗を掲げて、5,000余騎で小幡庄(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)のあたりで加わった。

 このように倒幕の意思が伝わり、軍勢が増えていくことは、ひとえに源氏の守り神である八幡大菩薩のご加護によるものである、この上はぐずぐずせずに先に進もうと、5月9日に義貞は上野の国から武蔵の国へと兵を進めた。その時、記五左衛門が、足利高氏の子息である千寿王を連れて、200余騎で追いついてきた。この噂が広まると、上野、下野、上総、下総、常陸、武蔵(関八州から安房と相模を除いた部分)の武士たちが予期していなかったのに馳せつき、召集をかけないのに馳せ来て、1日のうちに20万騎になった。
『太平記』の作者ははっきりとは書いていないが、千寿王つまり後の義詮の参集が決定的な意味をもったことは明らかで、これで北関東の武士たちが高氏の意向を察知して倒幕に加担することになった。千寿王自身はまだ元服していない子どもなのだが、その象徴している権威は義貞以上に大きかったのである。その前に新田一族が不思議な山伏の知らせで集まったというのは、あとから尾ひれがついた話で、おそらくは義貞が一族に急使を派遣したというのが真相であろう。記五左衛門という人物はどうも謎で、『太平記』の各本でそれぞれ名前が違っていたりするようである。(第9巻の初めの方で、高氏は北条高時の命令で、いわば人質として千寿王を鎌倉に留めおくことになったのだが、その時から、千寿王を無事に逃がすための手はずを整えていたようである。千寿王は三男ではあるが、高氏の正妻である赤橋登子の子なので、すでに高氏の後継者と決まっていた。そう考えると、殺された竹若がいっそう気の毒である。なおその後、高氏は醍醐寺の僧隆舜に竹若の後世供養を委ねているそうである。)

 このように大軍が集まったので、広い武蔵野の地に(『太平記』の作者は「四方八百里」と書いているが、これでは広すぎる)、人や馬が身動きできないほど大勢入り込んだので、空を飛ぶ鳥も飛び回ることができず、地を走る獣も隠れ場所を見つけることができないという様子である。「草の原より出づる月も、馬鞍の上にj衡(ほのめ)き、尾花が末を過ぐる風も、旌旗の影に止まれり」(第2分冊、107ページ)とはいくらなんでも大仰な描写である。

 時の勢いというのであろうか、義貞の挙兵は瞬く間に大軍を集めることになった。とはいうものの、この大軍のかなりの部分が、義貞ではなく、千寿王を大将と仰いでいたことは、その後の動きから明らかである。鎌倉幕府は思いがけない強敵に直面することになるが、その討幕軍にも矛盾の種が潜んでいたことになる。
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