『太平記』(79)

12月8日(火)曇り

 今回から第10巻に入るが、その前に第9巻のおさらいをしておこう。元弘3年(1333年)3月7日に鎌倉幕府から上洛の命を受けた足利高氏は鎌倉を出発、4月16日に京都に到着している。ところが翌日、高氏は伯耆国船上山の後醍醐天皇のもとに密使を送り、朝敵追討の綸旨を得た(これは歴史家に依って議論の分かれるところで、『梅松論』にはもっと早く後醍醐天皇と連絡を取っていたと記されており、吉川英治の『私本太平記』もその説を採用している)。高氏と同じく鎌倉から派遣されてきた北条一族の名越高家は、高氏よりも遅れて到着、六波羅で戦略を練った後に、4月27日に六波羅に迫っている千種忠顕・赤松円心らの後醍醐方の兵力の討伐に向かう。戦功を焦った名越高家は、赤松方の佐用範家に射られて戦死し、彼の率いる軍勢は壊滅状態となるが、高氏は戦闘に加わらず、丹波の篠村に向かい、そこで倒幕の意思を明らかにすると多くの武士たちが結集、5月7日に、千種忠顕・赤松円心と呼応して京都に迫り、その日の戦いに勝利して、六波羅の2人の探題は天皇・東宮・上皇を伴って鎌倉に向かい、再起を図ろうとした。しかし一行は、野伏の大軍に行く手を遮られ、近江国東北部の番場で自害を遂げ、光厳天皇と後伏見・花園の両上皇は都に帰還されることとなった。三種の神器を始めとする宝器を後醍醐方の兵力に渡されたということは、後醍醐天皇の復位が事実上決まったということである。

 さて、六波羅陥落によって京都と近畿地方における情勢は一変したが、鎌倉の様子はどうだったのだろうか。このような変化が起きている間に、鎌倉には高氏が離反したという情報は届いていなかった。ところが5月2日の夜半に尊氏の三男である千寿王が行方をくらます。千寿王(後の義詮)は高氏とその正室である赤橋登子の子で、北条高時の命令で母とともに鎌倉にとどめ置かれていたのである。このことから、千寿王の父である高氏が幕府に反旗を翻したのではないかと憶測が飛び交いはじめる。

 北条高時は噂の真偽を確かめるために長崎為基と諏訪木工左衛門入道を京都に派遣する。5月2日に鎌倉を立って、夜を日に継いで急行する途中の駿河の高橋(静岡市清水区高橋)で六波羅からやってきた使者に出会い、「鎌倉の事もおぼつかなし」(第2分冊、99-100ページ、鎌倉のことも心配だ)と鎌倉に引き返す。
 尊氏が足利一族の加古基氏の娘との間に儲けた長男の竹若は伯父にあたる宰相法印良泉が伊豆山神社の神宮寺の僧侶であったので、そこに引き取られていたが、必ずや鎌倉から討手が差し向けられるだろうと山伏に変装し、同宿の13人の僧侶たちとともに京都に向かおうとした。ところがその途中の浮島原(静岡県沼津市愛鷹山の南麓)で長崎と諏訪にばったり出会い、宰相法印は何も言わずに馬上で切腹し、竹若は捕えられてその夜のうちに殺されてしまう。哀れを留めたのは同宿の僧13人で、首を斬られてその首を浮島原にさらされたのである。
 千寿王が行方をくらましたのが、5月2日の夜で、長崎と諏訪とが鎌倉を出発したのが5月2日というのはおかしいが、夜明け前に千寿王が行方をくらまし、夜が明けて評判が立って、六波羅への急使派遣となったものか、あるいはもともと六波羅の様子を探りに行く予定があったものか、いろいろと想像はできる。この後の物語の展開から、千寿王は北関東に向けて逃げたことが分かる。竹若も箱根から、山中を東北の方角へと逃れた方が助かる可能性は高かったと思われるのだが、山路は苦手だったのであろうか。

 さて、上野の国(群馬県)の武士である新田太郎義貞は、千剣破に立てこもった楠正成を攻撃する幕府方の軍勢に加わっていたのであるが、「相模入道の行跡を見るに、滅亡遠きにあらず」(第7巻、第1分冊、345ページ、相模入道=北条高時)と考えて、大塔宮護良親王から倒幕の綸旨を得る(本来、綸旨を発給できるのは天皇だけなので、手続きとしては問題がある)。そして病気と称して本国に戻り、身近で話のわかりそうな武士たちを集めて、倒幕のための挙兵の計画を練っていた。
 新田もこのような計画を進めているとは知る由もない北条高時は、足利高氏が敵になったと聞いて、自分の弟である北条泰家に10万余騎の兵を率いて上洛させ、西国の動乱を鎮定しようと考えていた。そのためには多大の兵糧が必要となるので、関東地方の荘園から臨時の税金を取り立てようとした。

 その中でも新田庄世良田郷(群馬県太田市世良田町)には有徳の者(富裕のもの)が多いというので、高時は2人の家臣を派遣して、5日間のうちに6万貫の銭貨を手配せよと厳命し、荘園の管理者の家に大勢の部下を乱入させて、厳しい税を取り立てたのは法外なことであった。自分の本拠地でこのような振る舞いをされた新田義貞は大いに怒り、「館の隣壁を(りんぺき)を馬の蹄に懸けつる事こそ安からね」(第2分冊、102ページ、屋形の周囲を馬で踏み荒らしたのは腹立たしい)と大いに怒って、多数の部下たちを差し向けて、2人の使者を生け捕りにし、1人を縛り上げ、もう1人の首を刎ねて、さらし首にした。

 この話を聞いて、今度は北条高時が怒った。これまで久しく、人々が北条家の命令に従わないということはなかった。ところが最近では、遠隔の地ではともすると幕府の命令を軽んじ、近くの地方でも命令に背く例が出てきた。それだけでも腹立たしいのに、加えて、幕府のおひざ元の関東で幕府の使者をとらえたり、殺したりするのは許せない行為である。ここでもし寛大な処置をとるならば、今後さらに悪い習わしが広まるだろうと、武蔵、上野の武士たちに新田義貞とその弟である脇屋義助を討伐せよとの命令を伝える。

 既に述べたことがあるが、新田氏は八幡太郎義家の孫、義重を祖とし、上野国に勢力をきずいてきたが、義重の弟義康を祖とする足利氏に比べて、鎌倉幕府の中での地位は低かった。新田氏の一族である里見氏や山名氏が新田氏から離れて幕府の御家人になっていたほどである。義貞には、勤王、倒幕のほかに、新田氏を源氏の嫡流として認めさせようという気持ちも強かったと思われる。
 ここでは、兵糧の準備に銭貨を集めるというくだりが注目される。平清盛による日宋貿易以来、わが国にも貨幣経済が浸透してきたことが分かるからである。とはいうものの、この後の時代、武士たちの収奪と略奪とに苦しむ農民を始めとする一般庶民の苦しみはいかばかりであったか。義貞が怒るのは、自分の支配領域で勝手な真似をされたというだけの理由からではないようである。なお、後の時代になって、徳川氏は新田氏の一族の得川氏の子孫であると称し、世良田には東照宮が建てられているが、『太平記』のこのあたりの記述はそのこととも関連するようである。有徳=富裕と岩波文庫版の校注者である兵藤裕己さんは脚注に書いているが、有徳人というのは中世独特の存在であり、かつ松平一族が有徳人であったという説もあって、このあたり掘り下げてみると面白いのである。

 千寿王=足利義詮が足利高氏の三男、竹若が長男とすると、次男は誰で、どこにいたのだという話になるが、後に足利直冬と名乗る次男は、この時期の動静について不明な点が多い。
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