ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(18‐3)

12月6日(日)曇り

 煉獄の第4環道に達したダンテは、「あらゆる善行もその逆も、愛に起因する」ことについてウェルギリウスに問う。キリスト教以前の人物であるウェルギリウスは、古代の哲学者の考えた哲学に基づいて、人間は愛に基づいて行動を起こすが、どのような行動を選ぶかの自由が与えられているので、その結果には道徳的な責任が伴うと説明する。この説明に納得したダンテは眠気に襲われる(時は1300年4月11日の深夜である)。

しかしこの私の眠気は、
たちまちに、私達をめがけ背後からすでに
山を回って迫ってきていた人々により破られた。

・・・彼らの足はあの環道を駆ける。
私が彼らのことを見た限りでは、向かってくる彼らに、
善き願いと正しき愛が拍車をかけている。

彼らはすぐ私達に追いついた。なぜならその群集の巨大な塊は、
走って移動していたからだ。
そして先頭の二人は泣きながら叫んでいた。

「マリアはあの山へと急いで走った。
カエサルはイレルダを制するべく、
マルセイユを撃ってから急転、スペインを急襲した」。
(270-271ページ) 第4環道を走っているのは、生前における怠惰の罪を贖おうとする魂たちの群れであり、先頭の2人が叫んでいるのは、キリストとそれに続く教会の誕生をもたらしたマリアの受胎告知の事跡、次には地上世界の平和をもたらすことになる(この平和がキリスト誕生をもたらした)ローマ帝国の成立を準備したユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)について、彼が覇権を握る過程で重要な契機となったポンペイウスとの内戦で、イベリア半島のレーリダ(イレルダ)に集結していた敵の主力に奇襲を掛けた事跡が語られる。(これらの行為、とくに後者が道徳的に善であるかどうかは疑問である。)

「急げ、急げ、足りぬ愛ゆえに、
時が失われぬよう。――続く者達が叫んでいた――
熱意が恩寵を再び茂らせるよう」。
(272ページ)

 ウェルギリウスはこの一群に、さらにこの上にある第5環道へと登ることのできる崖の裂け目がどこにあるかと質問する。彼らは、とどまって相手をすることのできない非礼を詫びながら、自分たちの跡をついてくるようにという。彼らが2人を追い抜いて去っていった後で、ウェルギリウスは約束の地への旅に疲れてモーセに背き、砂漠で滅びたイスラエルの民(の一部)と、アエネーアースに率いられてトロイアを脱出したものの、途中で離脱してシチリアにとどまった人々の話を引き合いに出す。安逸に流れて正しい判断ができなかった人々の例は少なくないはずだが、ウェルギリウスはこの二例だけを語っているのは、翻訳者である原さんが書いているように、怠惰なもの、正義の実現をためらうものへの軽蔑の気持ちからであろう。

 遠ざかってゆく魂たちの姿を見て、ダンテはさまざまな考えを思い浮かべる。
そこからさらに切れ切れの考えが幾つも生まれた。
そして次から次へと移ろい、
ぼんやりと目が閉じると、

やがてとりとめのない思いは夢へと形を変えた。
(275ページ) あれと考えているうちに眠ってしまうということはありがちなことである。ダンテとウェルギリウスは第17歌の途中で第4環道にたどりつくが、第17歌と第18歌の大部分が、愛と善悪、人間の自由意志をめぐる哲学的な問答によって占められていて、怠惰の罪を贖っている魂の描写はごくごく短い。その理由は既に述べたとおりであるが、肉体(質料)から離れたはずの魂(形相)が走るという肉体的な罰を課せられているというのは、象徴的な意味あいだとしても納得がいかないところがある。すでに何度か繰り返して述べられてきたように、ダンテの理想とする世界はキリスト教とローマ帝国の結びついた世界である。宗教的な理想だけでなく、世俗的な制度の重要性を認識していた点は、彼のものの見方がわずかながら近代に近づいていることを示すものであろうが、まだまだ偏狭で独善的であるという印象をぬぐい去ることはできない。

 
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