『太平記』(78)

12月1日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏、千種忠顕、赤松円心らの攻撃を受けて、六波羅を支え切れなくなった北探題の北条仲時と、南探題の北条時益は、光厳天皇、東宮である康仁親王、後伏見・花園の両上皇を伴い京を脱出、関東で再起を図ろうとした。しかし六波羅から山科に向かう苦集滅道(くずめじ)で野伏に襲われて北条時益が命を落とし、その後も野伏の大軍に包囲されて、いったんは窮地を脱したものの、近江国番場の峠で亀山院(後醍醐天皇の祖父)の五宮をかつぐ数千の野伏に行く手を阻まれた。頼みとする近江守護佐々木時信も後醍醐天皇方に降り、仲時は自害を決意した。仲時がまず腹を切ると、続いて432人の者たちが腹を切った。光厳天皇、康仁親王、後伏見・花園の両上皇は、五宮の官軍に警護されて三種の神器やその他の宝物とともに京に帰った。

 天皇・東宮・上皇に供奉した公家たちの中で、日野大納言資名「殊更当今(とうぎん)奉公の寵臣」(第2分冊、93ページ、とりわけ光厳天皇によく尽くした寵臣)であるので、この後どのような仕打ちを受けるか身辺の危険を察したので、その辺の辻堂に遊行の聖(=時宗の僧)がいたのを幸い、彼を出家の際に戒を授ける師僧として頭を丸めることにした。そこでこの時宗の僧が資名の神を落とそうとしたときに、資名は出家の際にはなんとかいう四句の偈頌を唱えるのではないかという。ところが僧はこの偈頌を知らず、やむなく「如是畜生、発菩提心(ほつぼだいしん)」と唱えた。本来、出家・授戒の際には「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」という偈頌を唱えるのだが、この僧が唱えたのは「梵網経」の中の句で「汝は畜生ゆえ道心を起こせ」という意味であった。近くにいた三河守友俊は、これまた出家しようとして髪を洗っているところであったが、命惜しさに出家するというので、畜生扱いにされるのは悲しいことであると驚きあきれながらも、資名と笑いあったのであった。
 資名は俊光の子で、後醍醐天皇に仕え、倒幕の計画を廻らしたが失敗して佐渡で斬られた資朝の兄である。『増鏡』に「さても日野の大納言俊光といひしは、文保のころ初めて大納言になりにしを、いみじきことに時の人いひ騒ぐめりしに、その子このころ院の執権にて資名といふ、また大納言になりぬ。めでたく度をさへ重ねぬる、いといみじかめり。前の御代にも、定房一品し、宣房大納言になされなどせしをば、かうざまにも人思ひいふめりし」(講談社学術文庫『増鏡(下)』、337ページ、さてさて、日野大納言俊光といった人は、文保のころ(この家としては)初めて大納言になったのを、大変なこと(破格の栄進)と時の人々はいい騒いだようだが、その子で、このごろ院(後伏見上皇)の執権をしている資名という者が、また大納言になった。めでたく(父子二代)度重ねての昇進は、大変素晴らしいことであるようだ。前代、後醍醐天皇の御代にも、万里小路定房が一位となり、宣房が大納言になされなどしたのを、このように破格だと人々は思いもし、いいもしたようである)とある。なお、『増鏡』のこの版の訳注者である井上宗雄は、この書物の敬語の使い方をもとに、『増鏡』の著者は<名家>の家柄である日野氏から大納言になるという異例の昇進に対して冷ややかな目を向けていると論じている。日野家はもともと学者の家柄で、実務官僚という役回りであったが、このように動乱の時代になってくると、実務官僚の実力がものをいいはじめるのである。ある人物の栄進をその人の実力によると考えるか、ひいきによると考えるかは現代にも通じる問題ではある。

 このようにして、今まで随行していた公卿や殿上人たちは、あちこちに落ち延びていったり、出家して一行を離れたりして、天皇、東宮、両上皇に供奉するのは勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)と禅林寺有光だけになってしまった。そのほかの人々はみな、見慣れない敵兵ばかりで前後左右を囲まれて、あきれるほどに粗末な輿に載せられ、都へと引き返されていく。前前年に後醍醐天皇を笠置で生け捕りにして、隠岐に島流しにした報いが3年経たずに現れた。この天皇(光厳天皇)もまたどこかに配流されるのだろうかと「心あるも心なきも、因果歴然の理(ことわ)りに、袖を濡らさぬはなかりけり」(第2分冊、94ページ、心あるものもないものも、因果応報の道理がはっきりと表れたことに、涙で袖を濡らさぬ者はいなかった)。

 一方、5月7日に六波羅が陥落して、天皇と上皇らがみな関東に落ち延びられたという噂が千剣破にも伝わったので、城を守っていた楠正成の一党は喜び、包囲していた軍勢は今後の自分たちの運命を考えて気が気ではない。早めに退散しないと野伏たちの攻撃を受けて、進退きわまってしまうことになるだろうと考えて、5月10日の早朝に10万余騎が奈良の方へと退却していく。その軍勢をめがけての武士たちが襲い掛かり、凄惨な情景が展開された。多くの死者を出したとはいうものの、主だった大将たちは、途中で命を失うものはなく、その日の夜には奈良に到着した。

 以上で『太平記』9巻は終わる。次回から10巻に入る。六波羅探題一行は全滅したが、彼らとともに関東に向かおうとした日野資名は出家することで命を長らえようとする。その出家の姿は滑稽に見えるが、自らの無様さを笑うだけの心の余裕があるのはなかなかのものである。事実、この後も持明院統を支えて、彼の活躍はつづくのであり、『増鏡』の作者が何と言おうと、日野家から大納言を出すのは、南北朝時代以降は当たり前のことになっていく。このあたりの、日野資名、そしてここでは名前が出てこないが彼の弟の日野(柳原)資明のしたたかさ、あるいはいやらしさには見るべきものがある。光厳天皇が都に戻る姿に因果応報の道理を見た多くの人々が涙を流したと『太平記』の作者は記すが、これが物語の結末ではないというところに、さらなる道理を見出すことができる。
 
 
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