中島敦「悟浄出世」

11月28日(土)晴れ

 昨日の当ブログで中島の「かめれおん日記」について書いたが、そのために同作品を読み直したついでに、ちくま文庫版の『中島敦全集 2』に収められている「悟浄出世」も読み返した。三蔵法師に出会う以前の沙悟浄の思想遍歴を描くこの作品は、孫悟空、猪八戒とともに三蔵に随行して天竺までの旅行を続ける中での沙悟浄の思いを描く続編「悟浄歎異」とともに、中島の死の直前である1942年の11月に今日の問題社から刊行された第二作品集『南島譚』の中の一編として発表された。ちくま文庫版の勝又浩執筆の「解題」によれば、「歎異」よりも「出世」のほうが後から書かれたと推定されるといい、中島が「僕のファウストにする意気込」(み、ちくま文庫版『全集 2』、552ページ)で書いたというだけあって、内容的にも充実し、完成度も高い作品である。

 流沙河に住む妖怪の1人である沙悟浄は気が弱く、いつも自分に不安を感じ、後悔や自責の念にさいなまれている。彼は物事を素直に受け取ることができず、懐疑の念をもって見てしまう一種の「病」に取りつかれており、それが彼の精神だけでなく、肉体も苦しめるのであった。医者である魚怪は、そんな彼を見て、この病は自分で治さなければ治らないという。
 苦しみ悩んだ末に、悟浄は流沙河に住む妖怪たちの間を訪ねて回り、その教えを乞おうと決心して旅立つ。流沙河の妖怪たちの間では様々な思想が説かれていて、それらが互いを受け入れてより高次な思想に達するということはなく、対立したままになっていたのである。
 こうして悟浄は幻術の大家である黒卵道人のもとを訪ねるが、彼とその弟子たちは法術を用いて敵を欺いたり、財宝を得たりという実用的なことばかり問題にしていて、悟浄の疑問には誰も答えてくれない。次に訪問した沙虹隠士(さこういんし)は虚無的な哲学を解いた末に死んでしまう。坐忘先生は常に座禅を組んだまま眠り続け、50日に一度だけ目を覚ます。このわずかな機会に悟浄は質問を繰り返すが、先生の回答は禅問答式に簡潔に過ぎて、悟浄には理解できない。
 遍歴を続ける悟浄は、神を信ぜよと四辻で説く若者の叫びを理解するが、自分の問いに答えるものではないと思う。この若者のいた場所から遠からぬ場所で出会った醜怪な老人は、自分の体が自由にならないにもかかわらず、自分は不幸ではないと肩を怒らせた。悟浄はその師父であるという女偊氏(じょうし)を訪れてみようと思い立つ。
 虯髯鮎子(きゅうぜんねんし)は当面の欲望を満たすために、すぐに行動に移ることが大事だといい、危うく悟浄は彼に食べられそうになる。隣人愛の説教者である(蟹の妖精)無腸公子は、慈悲の説を説きながら、自分の飢えを満たすために自分の子どもを食べてしまう。蒲衣子(ほいし)は自然の調和の中に透過することを理想としている。彼とその門弟たちは自然の生み出した美しいものを見て、その最奥の秘密に辿りつき同化しようとするのだが、できないままである。しかし、門弟の一人であった美少年は水に溶けてしまった。500余歳という年齢にもかかわらず若々しい美しさを保っている女怪・斑衣けつ婆(はんいけつば、「けつ」にあたる漢字を見つけられず)は、性の喜びが無上のものであるという。
 このように5年間にわたり遍歴を続けたが、「悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見出した」(ちくま文庫版『全集 2』、136ページ)。「思索による意味の探索以外にもっと直接的な解答があるのではないか、という予感もした。こうした事柄に、計算の答のような解答を求めようとした己の愚かさ。そういう事に気が付きだした頃」(同上)、彼は女偊氏のもとにたどりついた。
 女偊氏は取り立てて何かを教えようとはせず、「自分の病は自分で治さねばならぬ」(ちくま文庫版『全集 2』、137ページ)という選任だったので、悟浄はあきらめてその許を去ろうとすると、思索にふけるよりも、とにかく実人生で行動することが大事だと説かれる。「物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見る程不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、おまえは知らないのか。」(ちくま文庫版『全集 2』、139ページ)
 悟浄はこの教えをありがたく感じるが、それでもどこか釈然としないまま、師の許を辞した。結局、自分が説きたいと思っていることは、誰もわかっていない。分かっていないという約束事が出来上がっているとすると、それを質問して回っている自分は実に困った存在だということになる…というようなことを考える。
 こうして悟浄は、「自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇する前に試みよう」(ちくま文庫版『全集 2』、141ページ)
 と、ある日、彼は疲れ切って深い眠りに落ち、目が覚めてさっぱりとした気分になって歩いていると、観音菩薩とその従者である木叉恵岸に出会う。菩薩は「爾(なんじ)は観想によって救わるべくもないが故に、之より後は、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによって自らを救おうと心掛けるがよい。時とは人の作用(はたらき)の謂(いい)じゃ。世界は、概観による時は無意味の如くなれども、其の細部に直接働きかける時始めて無限の意味を有つのじゃ。悟浄よ。先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は向後一切打捨てることじゃ。」(ちくま文庫版『全集 2』、144-145ページ)と言い聞かせる。そして、この年の秋に天竺に取経の旅を続けている三蔵法師と孫悟空、猪八戒の一行が流沙河を通るので、その一行に加わり、西方に赴くようにという。特に一行の中の孫悟空から学ぶところは大きいだろうという。(なお、『西遊記』のもともとの話では、釈迦如来から取経の僧を探しに行くようにと命じられた観音菩薩が最初に逢うのが悟浄で、最後に三蔵と出会うことになっている。)
 疑い深い悟浄は、これが夢だと思うが、その一方で、ほんとうに取経の僧の一行に出会うような気もしてくる。そして実際に、彼は三蔵の一行に加わることになるが、それでも昔の癖が残っていて、「あまり見事な脱皮ではないな!」(ちくま文庫版『全集 2』、147ページ)などと呟くのであった。

 昨日紹介した「かめれおん日記」と同様、存在論的な懐疑が基調となっているのだが、さまざまな漢文の文献や時としては西洋の哲学から紹介された哲学的な議論が『西遊記』という枠の中でにまとめられている、その展開は見事である。中島敦は1909(明治42年)生まれで、花田清輝(1月)、大岡昇平(3月)、太宰治(6月)、中里恒子、松本清張(12月)と同年だと全集の年譜は記しているが、この顔ぶれに埴谷雄高(12月)を加えることができる(埴谷は戸籍上は1910年の元日の生まれということになっているが、実際の出生は12月だそうである)。これらの文学者の中で、思想傾向は違うし、中島の文学の中の哲学的な部分を強調するのも一面的な理解かもしれないが、花田、中島、埴谷は哲学的な傾向の強い作品群を残している点が共通している。そして、それが明治以降の欧米の文化の流入の中で、どのように伝統的な文化との関係を結ぶか(あるいは伝統文化に取って代わるのか)という問題とかかわっている点も共通するのではないかと思う。

 昨日も述べたが、中島の祖父・撫山は漢学者であり、彼の父親・伯父たちも旧制の中学校や専門学校で漢文の教師をしていた(漢文だけではないが…)。しかし、中島が「斗南先生」で描いているように、そうした学問と人間像は時代遅れのものとなり始めているという意識もあった。中島の伯父の一人である中島竦(しょう、たかしとも、1861-1940)はその業績が白川静によって高く評価されているような優れた学者であったが、そうであればあるほど、その業績と時代とのかい離が傷ましく思われるのである。

 中島が抱いていた存在論的な懐疑は、彼の幼少からの、家庭環境によるところもあるだろうし、青年期特有の思索の結果という側面もある(実際に、自分自身の経験を含めて考えてみても、身に余る難問に無謀にも取り組むという傾向が青年時代にはつきものである)が、自分のもっている多様な可能性のうちのどれを生かすべきか、自分の周囲の大人たちの身につけた教養を継承すべきかという、文化・社会の変化する相貌にかかわるものではなかったか、それは同時代の青年たちの少なくとも一部分にとって深刻な問題であったが、中島の場合それが漢学とのかかわりで深く問われているところに特徴があると思う。

 だからこの作品は、漢文や中国文学に興味があり、また多少の素養もみにつけている人にとっては、素晴らしく面白いが、そうでない人にはまるで分らないというちょっと困った性質を持った作品であるともいえる。悟浄がさまざまな妖怪・仙人のもとを訪ね歩く場面のユーモラスな描写を理解できるか、できないかのほうが、作品の主題を読み解くことよりも、鑑賞上、重要なのではないかと考える次第である。 
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