中島敦「かめれおん日記」

11月27日(金)晴れ、温暖

 11月25日に、元女優の原節子(本名=会田昌江)さんが9月に亡くなられていたことが報道された。私が盛んに映画を見るようになったのは原さんが映画界から引退された後のことであり、古い日本映画を見るのが好きではあるが、原さんの映画はそれほどには見ていない。原さんというと縁を感じるのは、やはり横浜つながりである。

 原さんは、横浜市保土ヶ谷区の出身で、旧制の横浜高等女学校(現在の横浜学園)を中退して映画界に入られた。現在の横浜学園は磯子区にあるが、この時代の横浜高等女学校は中区にあったのである。横浜の女子教育機関はミッション・スクールが優勢であったので、日本の女性はあくまで日本の女性らしくということで創設されたのが横浜高等女学校であった。原さんが入学されたのは昭和8(1933年)のことだと思われるが、この年、横浜高等女学校の理事長であった田沼勝之助が校風の刷新を図って新進有為の教師7人を採用した。その7人の中には東京外国語学校を出た英語教師の岩田一男(1910-1977)、武蔵野音楽学校を出た音楽教師の渡辺はま子(1910-1999)、そして東京帝大を出た国語教師(英語も教えた)の中島敦(1909-1942)がいた。この外の先生方の中でも、後に大学の先生になった人がいたと記憶する。校主である田沼としてみれば、これらの先生が長く学校で教えることを期待したのかもしれないが、大部分はその後、さらに大きな世の中に出て活躍することとなった。岩田と渡辺は横浜の人であるが、中島は東京生まれで、父親の仕事の関係で京城中学に学んだ(4年修了で旧制一高に入学している)。中島が採用されたのは、彼が田沼の旧師である漢学者で教育家の中島撫山(本名=慶太郎、1829-1911)の孫であったからである。原さんが中島(あるいは岩田、渡辺)の授業に出席していたかどうかは定かではないが、同じ時期に同じ学校の生徒であり、教師であったことは確かである。そしてその時代の学校を取り巻く雰囲気について知るのに、中島敦の短編「かめれおん日記」が役立つと思う。

 「かめれおん日記」は中島敦が横浜での教師経験を踏まえて書いた短編小説で、原稿には1936(昭和11年)12月に脱稿したと記されているが、実際は1938年(昭和13年)~1939年(昭和14年)に完成したと推測されている。中島はその後、1941年に持病のぜんそくがひどくなって横浜女学校を休職、その間に南洋庁に島民のための教科書編集の担当者として採用され、パラオに赴任するが、予期に反して健康状態は一層悪化、翌1942年3月に帰国する。パラオ滞在中に彼が兄事していた深田久弥のもとに残していた「山月記」、「文字禍」、「光と風と夢」などの作品が中央の文芸誌に発表されて注目を浴び、南洋庁をやめて作家として立つことになったが、1942年の12月にはぜんそくが悪化してこの世を去る。帰国後8か月間のうちに爆発的に傑作を書きまくったが、さらに多くの可能性を残したままこの世に別れを告げたのであった。

 「かめれおん日記」はそのような中島の晩年(といってもまだ30代の前半であったのだが)における作家としての開花以前の、晩年とはまた異質の可能性の片りんを見せている作品である。語り手である中学校の博物(現在の生物)の教師が生徒からカメレオンを託される。親戚の船員が手に入れたのだが、学校で教材として役立てた方がよくはないかということで持ってきたのだという。教師たちの間でいろいろ相談したのだが、とりあえず、語り手が自分のアパートにもって帰り、飼ってみることにする。「久しく私の中に眠っていたエグゾティスムが、この珍奇な小動物の思いがけない出現と共に、再び目覚めて来た。」(ちくま文庫版『中島敦全集 2』、197ページ)

 アパートでカメレオンと暮らすうちに、語り手は自分がカメレオンを見ているのではなく、カメレオンが自分を見ているような気分になる。博物の教師であるのに、懐疑主義や厭世主義の哲学書を読んだり、ラテン語やギリシャ語を齧ったりと専門外の領域の勉強に取り組んでいる自分自身の姿が、カメレオンの目にどのように映じるのであろうか。自分自身のあり方をめぐる懐疑がカメレオンとの同居生活で新たな展開を見せ始める。とはいえ、次第次第にカメレオンが弱っている様子なので、同僚にたのんで、上野の動物園に寄贈することになる。カメレオンがいなくなった後、主人公は横浜の外人墓地を歩き、あらためて自分探しの問いを続ける。

 この短編と表裏をなす習作がちくま文庫版の『中島敦全集 3』に「無題」として収められている。そこでは横浜の女学校を舞台に、中島=中山、岩田=石田というような実名に近い教師たちの人間模様が描きだされているが、中山と石田が、女学校での経験から得た教訓をアフォリズム風にノートに書き溜めているという個所がある。「かめれおん日記」の文章は、まさにアフォリズムを重ねたようなものであり、この「無題」の習作に、カメレオンという作者の存在論的な懐疑を映す鏡のような存在が組み込まれることによって、「かめれおん日記」が成立したといえよう。登場人物の設定が現実からより遠ざかり、高等女学校ではなく中学校が舞台となるというように虚構の要素が強くなることによって、「かめれおん日記」はより文学的な成功に近づくことになる。

 存在論的な懐疑を表現するアフォリズムの例としては次のようなものがある:「懐古的になるのは身体が衰弱しているからだろうと人はいう。自分もそうは思う。しかし何といっても、現在身を打込める仕事を(或いは、生活を)有っていないことがいちばん大きな原因に違いない。」(『全集 2』、204ページ)。
「全くの所、私のものの見方といったって、どれだけ自分のほんものがあろうか。いそっぷの話に出て来るお洒落鴉。レオパルディの羽を少し。ショペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。荘子や列子の羽を少し。モンテエニュの羽を少し。なんという醜怪な鳥だ。」(『全集 2』、214ページ)

 ただ、中島はいつまでもそのような懐疑に沈潜しているわけではなく、横浜の(昭和20年=1945年の)大空襲によって失われてしまった風景を生き生きと描きだしてもいる――私がこの作品で好きなのは、そういう部分である。「外人墓地にかかる。白い十字架や墓碑の群がった傾斜の向うに、増徳院の二本銀杏が見える。冬になると、裸の梢々が渋い紫褐色にそそけ立って、ユウゴウか誰か古い仏蘭西人の頬髯をさかさまにした様に見えるのだが、今はまだ葉もほんの少しは残っているので、その趣は見られない。」(『全集 2』、226ページ)

 「無題」の短編の中には高等女学校の生徒たちの様子の描写もある:「彼はこの間の服装・所持品検査の時に発見された夥しいブロマイドの数を思った。それから、又、何時か不意に試験を行った時、「ピタゴラスの定理に依って」と書くべき所を、「アスパラガスのていりに依って」と書いた名答案のあったことも思い出した。」(『全集 3』、302-303ページ)
 「土曜なので4時間でおしまいである。今週からハーフ・コートを脱ってジャㇺパーだけになった生徒達が嬉々として跳ねながら帰って行くのは、いかにも明るい眺めだ。」(全集 3』、309ページ)

 かなり恣意的に抜き書きしてみたが、女学校の教師としての経験を中島がどのように文章化したかを通じて、彼の作家としての可能性のいくつかの部分が見て取れるのではなかろうか。そして、「かめれおん日記」を始めとする短編には、当時の横浜の映画館や女学生の風俗についての記述がみられ、そのような記述から原節子さんの女学生時代を想像してみるのも楽しいことではないかと思うのである。

 中学・高校の6年間を通じて、わたしは京浜急行を利用して通学したので、当時はまだ女子だけの学校だった横浜学園の生徒と同じ電車に乗ることも少なくなかった。原さんの訃報に接して思い出すのは、中島敦のことだけでなく、また、岩田一男の『英語に強くなる本』をけなしながらも、彼の英文法の本を勧めていた英語の先生方のことだけでなく、電車の中で一緒だった横浜学園の生徒たちのことである。そういうことも含めて、原節子さんのご冥福を祈りたいと思う。
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