今野真二『常用漢字の歴史』(5)

11月26日(木)晴れたり曇ったり

 前回で第5章「常用漢字は常用されてきたか」の前半を取り上げたのに続き、今回は後半について、またそれに続く部分を取り上げて、この論評を締めくくることにする。第5章の前半部分では昭和21年(1946年)につくられた「当用漢字表」と平成22年(2008年)につくられた「改定常用漢字表」の背景にある基本的な原則が必ずしも一貫していないのではないかということが、論じられている。できるだけ漢字の使用を制限しようという方向が緩められたり、フリガナの使用が容認されたりすることが、はっきりと説明なしに行われていることに危惧が表明されている。

 「改定常用漢字表」はその「前書き」でこの漢字表が「一般の社会生活」の中での漢字使用の目安を示すものだと述べている。文脈から「一般の社会生活」はある程度の「公性」を帯びたものと考えられるが、その一方で、それが「日常の言語生活一般」と全く別のものであるとも考えにくい。

 ここで著者は「航続半径」という考え方を持ち出す。これは航空機が途中の給油なしに行って帰れる距離をさすという。著者が考えているのは、「改定常用漢字表」の「航続半径」、つまりこの漢字表の知識でどの程度古い文献が読めるのだろうかを試してみようということである。そこで著者は明治41年(1908年)9月1日から『大阪朝日新聞』に連載された漱石の『三四郎』の1ノ1を取り上げて、そこで使用されている漢字の字種、訓、それに字体について検討を加えている。
 まず字種については252字種のうち246字種が(人名用漢字も含めれば)「改定常用漢字表」に載せられているという。ところが訓についてみると、「改定常用漢字表」が認めていないものが多く、その大部分が「主に漢語をかくのに使われている漢字」(208ページ)にかかわるものである。「改定常用漢字表」が漢字の訓を絞っているために、その漢字の意味が分かりにくくなっている例が少なくないと著者は指摘する。そして言葉が変化するものである以上、漢語も和語もこれから変化するであろうし、「常用漢字表」の訓をさらに見直す機会が出てくるだろうと予見している。
 字体についてみると、明治時代に旧字体≒康煕字典体を常用していたと考えられがちであるが、必ずしもそうではないという。また「改定常用漢字表」における康煕字典体の理解も不十分で一貫性を欠いていることが、灯と燈、窓と窗の例を取り上げて指摘されている。大枠としての「改定常用漢字表」の有効性を認めながらも、訓に幅を持たせたり、康煕字典体と「常用漢字表」の事態とを結び付けることなどの教育的工夫を図るべきではないかというのが著者の考えのようである。

 第6章「今、漢字はどう使われているか」では、『朝日新聞』が独自に作成している漢字表とその運用の実態について検討している。さらに現代の文学作品における漢字の使用例も検討して現代の書き言葉の中での漢字の役割が変化していることを指摘する。これは電子メールの普及によって文字化される言葉が急激に変化していることとも関連している。これまでの言語政策が漢字とその音訓をどのように制限することかに重点を置いてきたのであるが、漢字の書き言葉の中での比重がそれほどでもなくなってきていることから、新たな言語政策の展開が求められるはずであると説く。その際に、一方で、「電子化」の問題、他方で「手書」の問題をどのように考えていくかが重要であるとも論じている。
 また一定の品詞をかな書きするという方向性が、明治時代の書き言葉におけるやり方と異なっており、書き言葉の連続性を図るうえでは問題があるとも述べている。

 終章「日本語と漢字」では、これまでの日本語の歴史の中で、漢字が果たしてきた役割を再認識することにより、日本語についても新たな知見を得る可能性について示唆して議論を終えている。

 「当用漢字」「常用漢字」というと、どのような漢字が選ばれているのか、ということに関心が向かいがちであるが,この書物では送りがな、音訓、ふりがな、字体といった問題も取り上げて、文明開化の時代以後の日本語の中での漢字の使用について包括的に論じているのが参考になる。特に訓の問題に焦点を当てて、言葉の意味をどのように表現し、理解していくかにかかわってその役割を強調し、明治時代にはもっと多くの多様な訓が用いられていた事実を指摘して、「常用漢字表」における訓の許容の幅を広げることを提言しているのは注目される。全体として、日本語とその書記法について歴史的な理解を持つべきことを読者に訴えており、その訴えは確かに心に響くものである。言語政策が歴史的な連続性を考慮すべきことは確かであるが、その中で肯定的に継承されるものは何かという言語をめぐる価値観をどこに求めるのかも問題となるのではないかと思っている。
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