映画批評と女優

3月20日(水、祝日)晴(これからの天候の変化が予報されている)

 持物を整理していて、現在の半分くらいの年齢であった頃使っていたパイロットのシステム手帳を見つけた。その中に映画批評と女優について書いた文章があって、当時と今とであまり関心が変わっていないことに気付いた。それでどんな議論であるか、その前半部分を紹介してみる。少し文章を直しているが、論旨は変えていないつもりである。

 女優と言っても1人の女性であることに違いはないが、映画批評家にとってただの女性であっていいわけはない。というよりもあってはならないのである。

 グレタ・ガルボについてアメリカの映画批評家であるJ・H・ロースンとハンガリーの文学者で映画についての理論的な研究家でもあったべラ・バラ―ジュが書いた2つの文章は、そのことをよく示している。たぐいまれな美しさと神秘的なまでに豊かな可能性をもったガルボは、ハリウッドの商業主義の下でその個性を十分に開花させることができなかったとロースンは書いた。主題がガルボではなくて、ハリウッドの商業主義にあることは明らかである。これに対しバラ―ジュはもっとガルボの中の<永遠に女性的なもの>に迫ろうとしている。ガルボの美しさは高貴な悲しみ、抑圧に耐える者の美しさであるとバラ―ジュは言う。しかし彼はガルボの美しさをたたえているわけではない。資本主義との無意識的な戦いすら女性を美しくすると言っているのである。もっと正確に言えば、資本主義の下で無意識的にせよ戦い続けている人々に、同じ境遇の下にある人々が美しく見えるのだと言っているのである。ガルボは確かにそういう人々の代表であろう。バラ―ジュはガルボに憧れ、慕っているわけではない。それだけのことならばファンレターを書けば十分である。彼は人々に資本主義と闘うことの重要性を説こうとしているのである。ガルボの美しさはそのひとつの例証なのである。そこに批評の立脚点がある。あらゆるものが例証の材料となっている。

 以下、1970年代後半の日本の状況についての議論が出てくるがこれは省略する。当時もそうだったし、今でもそうだが、ロースンよりバラ―ジュの方が好きである。女優は個性であるとともに、時代の記号でもありうるなどと現在では考えている。マルクス主義から記号論へと次第に思考の軸足は変わってきた(同じことを別の表現を選んで考えているというだけのことかもしれない)が、女優さんが映画を見る際の主たる関心である(他に風景とか、生活の細部とかも関心ではあるが)のは、一向に変化していないことに気づくのである。


 
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